人は本来、慈悲深い存在です。
けれども一方で許しがたい耐えられないと感じる時もあります。許しがたい耐えられないこととは、どのようなことでしょうか?
それは痛みを伴うことではないでしょうか?心の痛みは非常に大きな壁になります。痛みを避けるために心を閉じます。また、痛みや苦しみの対象を避けたり、追いやったり、無視したり、怒ったり・・・あらゆる方法で痛みや苦しみを回避しようとします。
もしそうだとしても、それは自然な反応です。ありのままの心の出発点なのです。痛みや苦しみを避けようとするのはとても自然な反応だと覚えておいてください。
それは自然でありのままな心なのです。すべての命が、そのようにありのままの心と共に、慈悲の心を育みながら変容し続けています。マスターと呼ばれる存在達も、みんなそのようにして進んできました。
そのような出発点からどのように慈悲心を育めばよいでしょう。
慈悲とは「すべては変化する」ということを知っているまなざしです。一歩進めて表現するならば、「よい変化を促し見守るまなざし」です。
例えば、ひどく人を傷つける人がいるとします。その人は自分が傷つければ、いつかそのような状況が廻ってくるということを知りません。悪い種が蒔かれること、その悪い種は自ら刈り取ることになることを知らないので、そのような過ちを繰返すのです。もし心身霊が深く理解していれば、未来に自分を傷つける結果につながるような過ちは繰返さないはずです。
通常、人を傷つける人の周囲にいると、その様子を見て、周囲の人の心も痛みます。大きな命はつながっているので、まるで自分が傷つけられたかのように心が傷むのです。そこで、傷つける人を憎んだり、悪く言ったり、無視したり、遠ざけたりして、そのような心の痛みを感じなくて済むようにします。また、頻繁に人を傷つける行為に腹を立て、怒ります。それはごく自然な反応です。そのような、ありのままの反応に気付き、受け入れることは非常に大切です。
ですが、同じ人の心の中にある慈悲の心は、その「傷つける人」を悲しみ慈しむのです。なぜなら、傷つける人にもその人なりの事情があることがわかり、また経験と智慧によって、そのようなことを続けていれば、いつの日かその人に次々と同様の状況が廻って来ることがわかるからです。それは同様に心が傷むことなのです。なぜなら大きな命はつながっているから。赤の他人ではないのです。だから慈悲の心は「傷つける人」を悲しみ慈しみます。
そうして、このような過ちが繰返されないよう祈り願います。それが、慈悲の瞑想の意味です。
私の嫌いな人々も幸せでありますように
私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな人々に悟りの光が現れますように
(アルボムッレ・スマナサーラ - 慈悲の瞑想より)
このような祈りが、やがて静かな変化を促すことを慈悲の心は知っています。そのように一生変わらないかのように見える「人を傷つける人」も、やがては変化することを知っているのです。だから慈悲の心は、「全ての変化を促し見守るまなざし」で見守り続けます。
このように、同じ人の心の中には、慈悲の心も、ありのままの自然な心も、人を傷つける心や傷つけたことのある心も、色々と浮かんでは消え、浮かんでは消えと、雲のように流れて行きます。
その中で「慈悲の心を育む」ということは、浮かんでは流れていく色々な心の反応に気付きながら、「よい変化を促し見守るまなざし」を育てて行くことだと言えるでしょう。
また、自他の変容に伴い、数多くの何かを手放していくことになりますが、(たとえば人を傷つける部分など)、それを手放す時には、愛と光をこめて優しい気持ちで見送りましょう。それらの全てには何か理由があったのです。もはや必要なくなった手放すものたちではありますが、慈愛をこめて手放すことが大切です。
ありのままの心と共に慈悲の心を育てていくことができますように。地球上に慈悲の心が広がりますように。自他の幸せにつながるよい変容を進めることができますように。
inner-wish 2015年11月6日