般若心経(小本)_言葉

更新日:2022/07/27 公開日:2012/01/18

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般若心経(小本)_言葉【自己変容の道】
般若心経(小本)_言葉【自己変容の道】

般若心経(小本)_言葉

 

波羅蜜多・六煩悩・六波羅蜜・空・五蘊・舎利子・色即是空・眼耳鼻舌身意・色聲香味触法・無明・十二因縁など、般若心経に関連する言葉の説明を引用しています。

 


以下の紹介内容は、すべて下記より引用しています。

CD付き 般若心経 読む・聞く・書く 単行本

【参考】
『般若心経【読む・聞く・書く】』
法楽寺住職 小松庸祐/西東社

 

画像については、書籍の内容を参考に作成したものです。
それ以外の追加情報については、参照元を個別に記載します。

 


波羅蜜多(はらみった)

 

波羅蜜多というのは、到彼岸(彼の岸に到る)という意味の言葉です。

彼の岸とは、私たちが理想とする場所、人間としてもっとも完全に生きようとする場所をいいます。

 


六煩悩(ろくぼんのう)

彼岸に到るには、さまざまな障害(煩悩)があります。煩悩の数は八万四〇〇〇にもなるとお釈迦さまは説かれました。これらの煩悩が彼の岸に渡るのを邪魔します。そしてこの煩悩を大きく分けますと六つ(六煩悩)になります。

 

①愚痴(ぐち)

道理のわからないこと。智慧の無が根になっている

 

②慳貪(けんどん)

惜しみ貪る精神

 

③放逸(ほういつ)

勝手気ままな節制のない精神

 

④瞋恚(しんに)

腹を立てたりやけを起こすこと

 

⑤懈怠(けだい)

なまけ、怠る精神

 

⑥散乱(さんらん)

心が乱れること

 

これらを退治するためにお釈迦さまがあげられたのが、次に述べる六波羅蜜あるいは六度です。

 


六波羅蜜(ろくはらみつ)あるいは六度(ろくど)

 

理想の彼岸に到るべき行いが六つあります。その六つを六波羅蜜(ろくはらみつ)あるいは六度(ろくど)といいます。度は渡るという意味。人間が生きがいのある暮らし方をするうえでの規則を、仏が示されました。

 

六波羅蜜または六度

行うべき度 内容

①布施(ふせ)

慳貪(けんどん)の反対

布く(ひろく)施し(ほどこし)をすること。恩を返してもらうためにするのではなく、慳貪な人を喜ばすものでもなく、天の果報を得るためでもない、名誉のためでもなく、人に勝れていることを示すためでもない。乱費する者に施さず、多くを有するものに施さず、無用の施しをせず、親しいからといってするものでもない。まことの施しは真に人を愛する心から、他人に安楽を与えるよう、慈善の心をおこさしめるため、尊い道を歩むため、この煩悩を破るため、そして彼岸に達するために施しをすること。そしてその施はお金や品物に限らない。この言葉をもって、この手足を使って、この身体の力の限りを尽くし、他人のために尽くす。魂と魂の触れ合いによって生じる心の底からの行為をいう。

②持戒(じかい)

放逸(ほういつ)の反対

戒律を持つこと。仏教徒が守るべき徳として、不殺生(ふせっしょう)、不偸盗*1(ふちゅうとう)、不邪淫(ふじゃいん)、不妄語*2(ふもうご)、不綺語*3(ふきご)、不悪口(ふあっく)、不両舌(ふりょうぜつ)、不慳貪(ふけんどん)、不瞋恚*4(ふしんに)、不邪見*5(ふじゃけん)などがある。戒とは人がつまづかないようにしようとする心にそむかないこと。人が危険にあわないようにするのが人間としての心であり、行いであり、菩薩の心である。

③忍辱(にんにく)

瞋恚(しんに)の反対

はずかしめを忍ぶこと。自分の心を傷つけられることに対して悲しまぬよう、憤らぬよう、意気消沈、失望しないようどこまでも耐え忍ぶこと。その反対が瞋恚(怒りの心)。お釈迦さまは「一念瞋恚の火は無量億劫(むりょうおくごう)の功徳法財を失う」、さらに「恨(うらみ)を以って、恨に報いるとき、恨はいつまでも消えないであろう。ただ忍べ。忍ぶことによって恨が消えるのだ。争うな、恨むな、ただ人を愛せよ、慈悲を行ぜよ」と弟子たちを戒めた。

④精進(しょうじん)

懈怠(けだい)の反対

目的に向かって進むこと。「勤めてもまた勤めても勤めても、勤めたらぬは勤めなりけり」という古い歌のとおり、自分自身の心のなかに自らの精進に対する心の力を貯えておかなければならない

⑤禅定(ぜんじょう)

散乱(さんらん)の反対

よく座禅することと心を静めることをいうが、もう少し深めると世のなかがつまらないと思っていること、そのじつつまらないと思う自分の心がつまらない。そのことに気づかせてくれるのが禅定で、自分の心に立ち返って静かに落ち着いた本心の声を聞くこと。

⑥智慧(ちえ)

インドの古い言葉で般若(はんにゃ)。布施、持戒、忍辱、精進、禅定の五つの根元になる心の働き。まことの智慧とは覚(悟)った智慧、迷いを除き真理を覚った智慧のこと。

*1 不偸盗(ふちゅうとう):人のものを盗まないこと

*2 不妄語(ふもうご):うそをつかないこと

*3 不綺語(ふきご):真実にそむいた、たくみに飾った言葉をいわないこと

*4 不瞋恚(ふしんに):怒らないこと

*5 不邪見(ふじゃけん):よこしまな考えをしないこと

 


空(くう)

 

「すべてのものは因縁から形成される」

空というのは、仏教の基本的な教えです。

 

お釈迦さまは、すべてのもの(諸法)は、種々の要素(因)が集まって(縁)、それらが結合して生じた(生)あらゆる現象と物質(起<)であるとしています。これを因縁生起(いんねんしょうき)といいます。ひとことでいえば、すべてのものは因縁から形成されているということです。

 

ですから、そこには本来、実体などというものはありません。空なのです(諸法皆空(しょほうかいくう)という)。またそのように照見することを空観(くうかん)といいます。

 

「因縁を構成するものは常に変化する」

因縁を構成する要素を見てみますと、変化しないものは何一つとしてありません。

 

構成要素の状態が変わればシステムも変わります。システムが変われば構成要素の状態も変化します。(これを依他起性という)。

 

私たちの目には何ら変化しているとは見えない身近な石ですら、瞬間、瞬間に変化しているのです。

 

すべてのものは、他によって常に変化(無常)を繰り返し、それ自体が独立して不変を保つものは何一つなく(無我)、複合構成された要素についても常住不変ではない(無自性)というわけです。つまり空というのは、そのシステム自体をいいます。

 

一切諸法は無常、無我の相であり、空相なのです。

 

しかし、空は虚無ではありません。空を論じることは真実の価値を見出すことにつながります。これを仏教では真空妙有(しんくうみょうう)といっています。

 


五蘊(ごうん)

 

「色・受・想・行・識を五蘊という」

色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊の五つを五蘊といいます。蘊というのは積集の儀といって積み重ねの意です。

 

●色(しき)

物質をさす。地・水・火・風の四元素から成り立つ。

 

●受(じゅ)

感覚のこと。目で色を見、耳で声を聞き、鼻でにおいを嗅ぎ、舌で味わい、身に触れて意に思い、心が受け入れること。

 

●想(そう)

思想の意味で、受を概念化するはたらきを表す。たとえば、風景を見て山川草木あらゆるものが心に描けること。

 

●行(ぎょう)

実際に見たり聞いたりといった知覚の境に触れて、心がいろいろに移りゆくこと。

 

●識(しき)

心に受け入れたことに対して、是是非非に分別すること。

 

「『我』とは五蘊なり?」

 

我と思っているのは肉体と精神との和合であり、肉体は物質をさす色、すなわち地・水・火・風の四元素から成り立っています。心(精神)を分解すると受・想・行・識の四つとなります。菩薩は、我もなければ、我を組織するこの五蘊そのものが空と照見しています。

 


苦(く)

 

「四苦八苦」

『般若心経』では苦厄とありますが、苦は四苦八苦というように日常使われています。煩悩がすなわち苦です。厄はわざわいの災厄、厄難です。

 

①~④:四苦、①~⑧:八苦

 

①生苦(しょうく)

生まれる苦しみ。

 

②老苦(ろうく)

としを取る苦しみ。

 

③病苦(びょうく)

病にかかる苦しみ。

 

④死苦(しく)

死ぬ苦しみ。

 

⑤愛別離苦(あいべつりく)

愛する者と別れる苦しみ。いとしい人、可愛い人と別れなければならない苦しみ。

 

⑥怨憎会苦(おんぞうえく)

憎む者と会う苦しみ。気の合わない人ともひとところに住まなければならないことや、仕事を一緒にしなければならない苦しみ。

 

⑦求不得苦(ぐふとくく)

求めて得られない苦しみ。一つ持っているのにそれだけでは満足できずに、あれもこれもと欲しくなる苦しみ。

 

⑧五陰盛苦(ごおんじょうく)

人の五蘊より絶えまなく生じる苦痛。精神と肉体との和合が理解できず、人間の本心を覆いかくしてしまう苦しみ。

 

「輪廻」

いっさいの苦厄は煩悩が発信源になっています。私たちは身体(身)で行動し、言葉(口)で表現し、心(意)でさまざまなことを思いめぐらしています。(身口意という)。それぞれの活動、行いは必ず善悪、苦楽の果報をもたらし、それぞれを身業(しんごう)、口業(くごう)、意業(いごう)の三業(さんごう)といいます。煩悩に起因する行いが業となり、苦を呼ぶという悪循環を繰り返して、何の進歩、前進のない無明の世界を作り続けています(輪廻)。

 

煩悩業苦

(輪廻)

苦業煩悩

 

そこでこの無明より抜け出すことが肝心で、そのためには、身も心も無にする。心身ともに空じられた心境に入ったとき、生死(しょうじ)の輪廻の絆が断たれます。煩悩がなくなって業もなくなり、その結果苦しみもなくなるのです。空じられた心境そのものです。

 


舎利子(しゃりし)

 

舎利子(サーリプッタ)は、お釈迦さまのお弟子のなかでも智慧第一というお方です。舎利弗(しゃりほつ)ともいいます。バラモン(僧侶)の出身でした。

 

釈尊が教えを説くとき、変化身として、観音菩薩が釈尊に代わって教えを説く形がよくあります。そして、いつも相手になる人がいます。この『般若心経』を説かれたときの相手は舎利子でした。そのほか多くの経典のなかでも「舎利子よ」と釈尊は教えを説かれました。

 

それは3000年昔の舎利子に向かってではなく、今も経典を読む私たち一人一人が舎利子であると呼びかけをなさっているのです。舎利子が行き続けているゆえんです。

 


色即是空(しきそくぜくう)

 

「即は『そのまま』と理解しよう」

 

色即是空、空即是色を説く鍵は即をどうとらえるかにあります。

「即」という字には、二物相即(にもつそうそく)、背面相即(はいめんそうそく)、当体全是即(とうたいぜんぜそく)という三つの意味を含む「即」があります。

 

①二物相即(にもつそうそく)

二つのものを一緒にするという即

 

②背面相即(はいめんそうそく)

表と裏の二つが一つであるという即

 

③当体全是即(とうたいぜんぜそく)

そのものそのままという即

 

色即是空、空即是色の即は、空はそのまま色、色はそのまま空という、当体全是即(とうたいぜんぜそく)の即になります。

 

色を「私」という存在に置き換えて話しますと、私自身と空と二つがあるのではなく、表が私自身で裏が空というのでもありません。私自身そのままに本来色であり、そのままに空なのです。

 

さらにいえば、空というのでもなく色というものでもない、思慮分別を離れて、私はありのままの自己そのものです。

 

山は山、河は河になりきっている。そこに少しでも思慮をつけ加えるとするならば、それが妄想というものなのです。したがって受も想も行も識もまた、色のとおりに空であり、空がただちに受想行識になるのです。

 

この思慮分別を離れた何の一点の情量を加えてない境界が、深般若の世界です。

 

阿弥陀さまも浄土も自分の心にある?

 

「唯心(ゆいしん)の弥陀己身(みだこしん)の浄土」という語があります。阿弥陀さまは遠い極楽におられるのではなく、己が心のなかにいつもおられるという意味です。阿弥陀さまと自心の間には時間もなければ空間もなく、まったく一つです。極楽も地獄もみな、善悪の心より現したものです。

 

「色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ちこれ空なり、空は即ちこれ色なり」

ですから、色即是空、空即是色と般若の力によって貪瞋痴*(とんじんち)が空じられたとき、空を観じ空を行じて浄土が実現します。

 

これらはみな自分以外の世界が変化するのでなく、この身の心の変化によって、今までの苦しい世界がただちに浄土の世界になることを意味しているのです。

 

*貪瞋痴(とんじんち)

貪はむさぼること。瞋は怒り。痴はものの道理がわからないこと、愚痴、無知。

仏教の三毒。

 


眼耳鼻舌身意(げんにびぜっしい)

 

「人間の身体を構成するもののこと」

 

仏教では人の身体は、眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)の六つから成り立っているとしています。

 

木には根があり、この根が木を支え枝葉を繁らせるように、人間はこの六つが作用します。そのようなことからこの六つを六根といいます。それぞれの意味は、字のとおりです。

 

①眼(げん)

色や形を認識する視覚器官。またはその能力のこと。

 

②耳(に)

言葉や音を認識する視覚器官。またはその能力のこと。

 

③鼻(び)

香りや臭みを認識する器官。またはその能力のこと。

 

④舌(ぜつ)

味をとらえる味覚器官。またはその能力のこと。

 

⑤身(しん)

触れたときの触角を認識する触覚器官。またはその能力のこと。

 

⑥意(い)

思惟器官。またはその能力のこと。

 

仏教には六根罪障(ろっこんざいしょう)、六根清浄(ろっこんしょうじょう)というように六根を使ったたくさんの言葉があります。はじめの六根罪障というのは、六根によって犯した罪の場所をいい表し、六根清浄とは六根の汚れがきれいに拭い払われて、心身ともに清らかになることをいいます。

 

富士登山などの際には「六根清浄」などといいながら山道を登る習慣が残っています。心身を清めて山に登ることで、おかげが得られるという信仰のあらわれです。

 

「地水火風空」に対応する

 

六根も地水火風空に対応すると考えられています。

 

①眼(げん):火

②耳(に):空

③鼻(び):地

④舌(ぜつ):水

⑤身(しん):風

 

地水火風空の五つは、物質の構成要素です。

仏教を生んだ古代インドでは、人間の身体も自然界にあてはめて考えられていました。

 


色聲香味触法(しきしょうこうみそくほう)

 

「六境といい六根に対応する」

 

色(しき)・聲(しょう)・香(こう)・味(み)・触(そく)・法(ほう)の六つは、六根の認識の対象となるもので、六境(ろっきょう)とよびます。眼に対して聲というように、それぞれが六根に対応しています。

 

また六根と六境の間で起こる作用(眼識(げんしき)、耳識(にしき)、鼻識(びしき)、舌識(ぜつしき)、身識(しんしき)、意識(いしき)の六つ)を六識(ろくしき)といいます。

 

六根と六境を合わせて十二処(じゅうにしょ)、十二の場所を意味します。

さらに六識と十二処を合わせて十八界(じゅうはっかい)といい、これらが同時に働いて、はじめて人は認識することができるようになるのです。

 

①色(しき)

眼で認識することができる色や形のこと。

 

②聲(ほう)

耳で認識することができる言葉やさまざまな音声のこと。

 

③香(こう)

鼻で認識することができる香りや臭みのこと。

 

④味(み)

舌で認識することができる味覚のこと。

 

⑤触(そく)

触れることによって認識できる温、軽、冷などのこと。

 

⑥法(い)

意の対象となる思想などのこと

 

六根:眼 ・耳 ・鼻 ・舌 ・身 ・意

六境:色 ・聲 ・香 ・味 ・触 ・法

六識:眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識

 

十八界=十二所(六根+六境)+六識

 


無明(むみょう)

 

「根源的な無知をいう」

 

無明というのは物事の表面、うわべだけを見て真相を見ることのできないこと、人生の真理に対する正しい智慧のないことをいいます。真理に暗い根源的な無知が無明です。

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それに対して明とは、真理を悟る般若の智慧をいいます。

 

無明という言葉は、いろいろな言葉と組み合わさって使われています。

 

①無明の業火

煩悩に迷って犯す悪行のこと

 

②無明の酒

人間の本心をくらます無明を、飲みすぎると意識がなくなることから酒にたとえた言葉

 

③無明の父

人は無明を父として生まれたということから使われる言葉

 

「無明を第一に数える十二因縁」>

 

無明が原因となり、次々と因縁相続となっていきます。

このことから、無明は十二因縁(無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死)の筆頭にもあげられています。

 

その十二因縁は、私たちが生まれる原因の順序を説いて、悟りへの境地に導くかたちで、それぞれの項目の間に「Aがあるとき、Bがある。Aがないとき、Bがない」といった関係にあります。

 

その解釈には、胎児期、幼児期、青年期、壮年期、老年期と人間の発達段階に応じて説明するものや、十二因縁を過去世、現在世、未来世に分けて説明するもの(三世両重の因果(さんぜりょうじゅうのいんが)という)など、さまざまなものがあります。

 

十二因縁

段階 内容

>三世両重

 の因果

胎児期

 

無明 (むみょう)

無明の迷い。過去から続いていると考えられている。 過去世の因

行 (ぎょう)

無明の結果作り出される善悪の行為
幼児期

識 (しき)

最初の一念。魂・心・色 現在世の果

名色 (みょうしき)

心身の発育するとこと

六入 (ろくにゅう)

眼、耳などの六根のこと

触 (そく)

六境を備えていること

受 (じゅ)

心に受け込むところ
青年期

愛 (あい)

愛着(喜怒哀楽)の心を起こすところ 現在世の因
壮年期

取 (しゅ)

欲情の厚薄

有 (う)

受と取の結果
老年期

生 (しょう)

愛・取・有・の三つは、無明、行にあたり、識・名色・六入により生まれる 未来世の果

老死 (ろうし)

十二因縁のまとめ

以上の紹介内容は、すべて下記より引用しています。

CD付き 般若心経 読む・聞く・書く 単行本

【参考】
『般若心経【読む・聞く・書く】』
法楽寺住職 小松庸祐/西東社

 

画像については、書籍の内容を参考に作成したものです。
それ以外の追加情報については、参照元を個別に記載します。

 


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ダライ・ラマ14世(1935年7月6日 - 在位1940年 - )は、第14代のダライ・ラマである。法名はテンジン・ギャツォ。4歳の時にダライ・ラマ14世として認定、1940年に即位、1951年までチベットの君主の座に。1959年に中国からの侵略と人権侵害行為に反発してインドへ亡命。亡命後は、欧米でもチベット仏教に関心のある人や複数の著名人の支持を得、ノーベル平和賞を受賞し、国際的影響力はさらなる広がりを見せており、中国は別として世界的にはチベットの政治と宗教を象徴する人物とみなされる。

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ブッダ【役立つ情報】
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【ブッダ】Wikipediaより引用

仏陀(ブッダ)は、仏ともいい、悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人を指す。サンスクリットで「目覚めた人」「体解した人」「悟った者」などの意味である。基本的には仏教を開いた釈迦ただ一人を仏陀とする。一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。

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