卒業論文

更新日:2023/01/26 公開日:2022/11/24

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卒業論文-身体のコミュニケーション〜無意識性を探る【インナーウィッシュ】
卒業論文-身体のコミュニケーション〜無意識性を探る【インナーウィッシュ】

卒業論文掲載の理由

 

『身体のコミュニケーション〜無意識性を探る』という30年前の卒業論文を掲載した理由は、「無意識の情報交換」がインナーウィッシュにとって重要なテーマだからです。続きを読む(inner-wish補足)

 

身体のコミュニケーション〜無意識性を探る



序論

 

コミュニケーションによる相互理解は、果して可能なのか。 もし可能であると言えるな ら、どのような形で可能なのか。また、相互理解、他者理解とは何か。このような問に答えようとするのが本文の目的である。 

 

この論文では、身体表現を含めた総合伝達 手段としてのコミュニケーションについて考える。

 

〔コミュニケーションとは、言語レベルで明白に意図的に行われるメッセージの伝達だけを意味しているのではない。むしろ人 がお互いに影響しあうそのプロセスを意味しているのである。この定義は、動作やでき事のすべてが人間に知覚されるや否やコミュニケーション的側面を獲得するという前提にもとづいたものである。 〕(1)

 

従って、私たちの日常生活を振り返って見ると、話し言葉、身振り、動作、行為、視覚的信号、音響、映像、図式、文章など多様な知覚対象つまりコミュニケーション要素で成り立っ ていることが理解できる。また我々の行動すべてが、この多様なコミュニケーションの連続であることに気付く。 

 

コミュニケーション論は、理論的あるいは実践的な様々な方向から語られてきた。 

 

〈対話〉という形では、ソクラテスの時代 から真理探究の方法として重要視されてきた。 弁証法も本来は対話・問答法の技術であった。 〈対話〉は言葉を中心とするコミュニケーシ ョンの捉え方である。我々が最も意識的に操作しやすい部分、つまり理想的コミュニケーションのあり方を提示しやすいのが、〈言葉のコミュニケーション〉である。 

 

ところが、コミュニケーション障害を考える時、言葉以前の様々な問題が浮び上が ってくるのである。精神医学者のグレゴリー ・ベイトソンは、〈人間コミュニケーション論〉のアウトラインを提示しようとした。著書の 『コミュニケーション』 [注1]は、人間コミュニケーションを、個体内、対人、集団、文化という4つのレベルで捉えている。これは、 精神医学、ひいては人間科学の中心概念、社会的マトリックスとして体系的に、正面から位置づけた最初の試みと言われる。彼は、コミュニケーションを客観的に観察できる立場などあり得ないとしながらも、精神医学の現実問題(研究者相互の理解が困難であること等も含めて)を少しでも解決しようという目的から、コミュニケーションの捉え直しを図っている。 

 

また、植島啓司と伊藤俊治の対話から成る『ディスコミュニケーション』 [注1] は、人間とメディアテクノロジーの関係などから、従来と異なる様々なコミュニケーション形態の可能 性を提示している。「言語行為の限界を指摘するだけにとどまらず、言葉によって世界を切り裂いたその亀裂から見えた世界を、現実を形成するものと見る」という表現からも分るように、積極的な姿勢で言葉以外のコミュニケーションのあり方、コミュニケーションの未来の可能性を探究している。 

 

本文は、「コミュニケーションのあるべき姿」や「実践的な方法」を提示するのが目的ではない。あくまでも、コミュニケーションのあり方について私の捉え方を明らかにするのが目的である。 

 

〈言葉〉で捉えて表現する上での困難、あるいは客観的観察者としての立場が不可能であることなどは承知の上で、あえてこの〈捉え直し〉に挑戦したい。 コミュニケーションが、思想を伝え合うための重要な手段であり、哲学を学ぶ上で避けて通れなかった問題だからである。

 

 このような意味で、 コミュニケーションレベルの中から〈対人コミュニケーション〉 を選び、しかも言葉ではなく〈身体のコミュニケーション〉を中心に論を展開していく。 

 

第一章では、身体コミュニケーションが知覚を伴うものであり、その知覚がどのような選択をしているのかについて述べる。また身体コミュニケーションにおける選択の主体は何か。更に自己とは何かという問いに迫る。 

 

第二章では、コミュニケーションプロセスを表現と解釈に分け、表現する身体と解釈する身体がどのような無意識性をもつかを明らかにする。また、プロセスの円滑な流れを阻止する要因について分析したい。 

 

第三章では、身体のもつ無意識をまとめ、身体の他者性を明らかにする。他者としての身体がコミュニケーションする場合の相互理解とは何か。また意志がどんな役割を果たすのかを考えていく。 

 

人との関わり合いの中で生きる我々は、コミュニケーションを、友好的人間関係を創る手段として用いる。またそれは自己表現・他者理解の手段でもある。 

 

身体的コミュニケーションは、それを手段として用いる主体が自我とは限らないのでは ないか。相互理解のために、身体独自のプロセスをもつのではないか。また、そのプロセスは自我が意識できないものなのではないか。 

 

本論文は、身体のコミュニケーションを、 その〈無意識性〉から捉え直そうとする試みなのである。 

 


第一章 知覚と選択

第一節 知覚不可能な世界

 

情報やメッセージを発したり、受信したりすること全てがコミュニケーションプロセスである。それは、

 

〔人間の関係性に関わるものである。人、植物、動物、物は皆信号を発し、それが受信されて受け手にメッセージを伝えるわけである。このメッセージは受け手のもっている情報を変化させるので、結果的にその行動を変えることになる。〕(2)

 

つまり、私達人間は環境の全てからメッセージを送られて受信した効果で行動を決定しているというのである。では環境は私達にどんな信号を送っているのだろうか。ここで、環境〈私達を取囲む世界〉の発する信号と、私達の受信の仕方について考えてみたい。 

 

ライアル・ワトソンが、 『スーパーネイチャー』の中で次のような事を述べている。 

〔宇宙というのは騒々しい混乱に満ちた場であって、その中のあらゆるものは、衝突しあ う電磁波と音波の絶え間ない衝激にさらされていて、"生命"というのは感覚器官を使ってこの騒乱から自己を守る。その感覚器官というのは細いスリットにたとえられて、ごく限られた振動数しか通さず、入力を選択して情報と雑音を振るい分ける〕(3)

 

これは、私達が世界の信号の全てを受信するわけではないという事を示している。逆に、この世界には、私達が情報として受け取ることのできない信号に満ちている、とも言える。 

 

〔地球上には昼も夜も非常に大きいエネルギ 一を持った荷電粒子が宇宙から降りそそいでいる。これらは地下数百メートルまで到達する力があり、 "宇宙線"と呼ばれている〕(4)

 

のような説明は、宇宙から私達に向って突き刺さるような光線をイメージさせるが、実際には見えない。宇宙線の例は、我々人間皆が知覚できない類いの信号である。 受信能力に個人差の見られる信号については〈音〉の例がある。自分の可聴周波数範囲を調べる装置によって、〈聴えない音〉の存在に気づく。

 

〔高い周波数は16キロヘルツまで聞こえた。それ以上の周波数の音は、音として認識されずただ頭の芯に刺激を感じるだけであった。また低い周波数は40ヘルツまで貴として聞こえた。それ以下の周波数では、圧力を感じても昔としては感じられない。〕(5)

 

これは ある個人の受信能力を表す。 

 

〔われわれが音として感じるのはいうまでもなく空気の圧力変動が波動として空中を伝 わっていく音波〕(6)

 

であり、その空気の圧力変動を選択して〈音の情報〉か〈雑音〉かを区別しているのである。従って、可聴周波数範囲は、人によって異なるだけでなく、個人内差(時によって異なる)可能性も含む。ある時は音として聴こえ、またある時は同じ音波が聴こえないこともあり得るわけだ。 

 

知覚を伴う我々のコミュニケーションは外界の情報を選んでいるのだ。見えない宇宙線、聴こえない音波は情報として選ばれなかった信号なのである。 

 

身体は、外界の信号を情報として受信し、ほぼ同時に情報の解読と反応を行う。また、〈受信一解読一反応〉のプロセスは、連続的に行われている。従って情報選択も瞬間的かつ連続的に行われているのである。 

 

我々は、コミュニケーションが一般的に、〈自己選択〉の行為であることを知っている。 それは、話題の選択で対話が進むことから考えても明らかである。 

 

更に、身体的コミュニケーションは、知覚によって〈無意識の選択〉をも成立させている。宇宙線を情報として選んでいないということは、全く意識を介さない選択の一つであると言えよう。身体コミュニケーションは、 知覚による意識的あるいは無意識的選択を、 瞬間的かつ連続的に行うプロセスなのである。 

 


第二節 無意識の選択

 

前節で述べたように、我々の知覚は、混乱の世界から様々な情報を選択する。また、知覚を伴う身体的コミュニケーションも、刻々と外界の信号を選択し続けるプロセスである。 

 

では具体的に〈何が〉選択しているのか。 果たして、コミュニケーションの主体である〈自己が〉選択していると言いきれるのか。 

 

例えば、今周囲から聴こえる音は全て〈自己が〉選んで聴いている音だろうか 。また、視界に入っているものはどうか 。コミュニケーションの相手の表情や体の動きが変化するのを全て自分で選択して観察しているのか。 

 

時計の針が動く音が聴えたり聴えなかったり、じっと見ているはずの相手の表情が見え てなかったりする。これらの聴こえない音、視えないもの、分からなかった表情の変化等は、情報として選ばれなかったのである。

 

時間の流れの中で、連続的に選択し続けている主体は〈何か〉。自己が意識的に選択しなかったものがあるなら、その〈無意識の選択〉に主体があるのか。 

 

ここで、一般的に中央集権的な制御機構であるとされる〈脳〉について考えてみたい。 脳は無意識の情報選択をつかさどる主体であると言えるのだろうか。 

 

確かに、

 

〔脳幹の中にある網様体は、様々な神経路から感覚情報を受け、一種のフィルターとして働く〕(7)

 

と言われている。 しかし、

 

〔脳自身は記号を処理する装置ではない。脳は記号を浮遊させ、相互にぶつかり 合わせる媒体にすぎない。〕(8) 

 

つまり、脳自身が情報を選択する主体であるとは言えないので ある。そこで何が情報選択をしているかについては、あらゆる部分の役割く選択の機制など〉を個別に理解するしかない。 

 

〔フィルターとしての網様体が特に注目に値する理由は、その神経細胞が「非特異的」なものであるということだ。つまり、視覚、聴覚、運動といった神経細胞は、一種類の感覚刺激に反応するのに対して、網様体は各神経細胞からの多様は情報に反応できるのである。 そのフィルターは、〈新しい情報〉か〈持続 する情報〉のみを通すと言われている。〕(7) 

 

綱様体が特別な選択をするフィルターとして働くことは理解できた。では、無意識の情報選択をつかさどる主体は網様体なのか。 これも脳の場合と同じことが言えると思う。つまり、網様体自身は記号をぶつからせ、それに反応する媒体でしかない。

 

外界からの情報を最初に受け取る感覚器官にしても、それらに反応して何らかの形で表現する効果器官にしても同じである。 

 

〔大事なのは、生体組織にはすべて特定の刺激による衝激に応答する能力が備わっているということである。その応答能力のあり様は知覚された刺激のタイプと反応する組織・器官システムの性質によって決まってくる。〕(9)  

 

従って、各組織や器官がただ記号に反応する媒体として、それぞれ情報選択を行うわけである。そして知覚は特定の中枢機能でなく、 神経回路の機能つまり、それらの反応の連続によるものなのである。 

 

知覚を伴う身体コミュニケーションは、意識的に知覚する場合を除いては無意識の知覚である。情報として知覚したり、あるいは知覚しなかったりする選択の主体について考え たわけであるが、脳も、様々な器官も選択は行うが主体でないことがわかった。〈無意識の選択〉をつかさどる主体があるのではなく、 ただ身体の各部分が特定の刺激に反応する一連の流れがあるだけなのだ。 

 


第三節 意識と自我感覚

 

〈意識的な選択〉の主体は、自己であるか。 

対話の話題を選ぶ、相手の言動にどんな反応を示すのか選ぶ、視線の方向を選ぶ等、身体コミュニケーショションは選択の連続である。もし仮にこれらが意識的な選択である場合、すべてを〈自己が〉選んでいると言えるのか。 

 

意識的な選択の場合重要であるのは、意識の向けられる方向である。会話中であっても、 相手の口元、顔の表情、手の仕草、全身あるいは周囲の様子など意識の向けられる方向は常に変化する。もちろん話題の内容に関しても、印象的な表現や、気になる言葉に意識が留まったり、自分の言いたい事柄に意識が集中してしまう場合がある。 

 

相手や周囲に意識が向いている時と、自分の内面や自分の記憶に意識を向ける場合では意識の方向が異なっている。前者は、意識が自己の外側へ向っている。後者は自己の内側へ向っているのである。 

 

自己の内側と外側と言う時、そこには境界線が想定されている。自己を、それ以外のもの(他者や環境)から隔てる境界線つまり〈自己境界線〉とはどのようなものなのだろう。

 

さてここで〈自己〉に関する問いが2つ持ち上がったわけである。一つは、意識的な選択の主体は自己であるか。もう一つは、自己境界線とはどのようなものか 。

 

そこで、まず〈自己とは何か〉を考えるために、自己境界線のあり方を探り、次に自己境界線内の自己が、身体的コミュニケーションにおける〈意識的選択〉の主体であるか否 かについて考えてみたい 。

 

ベイトソンは図 (図1) を用 いて、自己境界線が自己の身体と環境の両方に交わることを示している。

 

【図1】伸縮自在の自己境界線図(G・ベイトソン)
【図1】伸縮自在の自己境界線図(G・ベイトソン)

〔有機体が自己の内に、自分に密接に関連してはいるが自分以外の対象や事柄を合む場合を示す。この時有機体は、自分の身体の一部を、ぼんやりとしか自覚していない。 あるいはコントロールがきかないと感じる機能を、環境の一部分であると呼ぶのである。 〕(11)  

 

また、植島啓司はベイトソンの自己境界線図を次のように解釈している。

 

〔図は文字通りの「自己」と「他者」の境界線がそれほど明確確ではないことを示している。点線で表示された自己の境界線はいわば伸縮自在である。 〕(12)  

〔われわれは、この身体と神経系によって規定された領域の外部へふみ出すことができないと言われてきた。ところが、これまでわれわ れの内部〈自己〉と思われていた領域に外部〈他者〉が侵入したり、また外部と思われて いた領域が実際には内部に属していたりということが次第にわかってきたのである。 〕(12)  

 

この伸縮自在の自己境界線は、もう一方の 図 (図2) のように、

 

〔弧の好きな部分に線を引いて、 そこから内部を”自己"”外部を"環境"と見なす 〕(13) 

【図2】自己境界線と環境図(G・ベイトソン)
【図2】自己境界線と環境図(G・ベイトソン)

 

場合と比較してどこが異なっているのか。  

 

どちらの図も、有機的組織体が環境に働きかけたり、環境によって働きかけたりする状況を示している。しかし伸縮自在な自己境界線の場合は、身体の中に外部をもっている。 コントロールがきかないと感じる機能は環境の一部と見なしてしまう自己なのである。つまり身体の中に他者性を見ている。

 

また環境についても、自己内部に含まれた 環境部分〈外部〉の存在を示す。

 

「ここで問題化されている「自己」は、最大限に拡大されると、ほとんど「環境」の領域全体を内側にとりこんでしまい、そうなると全てが幻覚と化すことになる。つまり、これまで外部と思 われていたものは「実際には魂の中で演じられている漠然としたものに、明確な輪郭を与えたもの」にすぎなくなるのだ。 〕(14)

 

しかし自己境界線が自己の内側と外側を隔てている自己境界線によって

 

〔自分自身を確認するためには、必ず外部に属すと思われる何かを必要とする 〕(15)

 

のである。 ところが外部は、 タームにして封じ込んでしまうと、すでに内部になっているのだ。 

 

このように自己境界線は明確に定まったものではない。従って、意識の方向が自分の内部と外部の間を動くと言っても 自己境界線が伸縮自在かつ不明確であるため、意識が自己内部に向けられているのか、外部に向けられているのかは、あいまいなのだ。 

 

我々が〈自分自身〉と言う時、それは他のものから自己を区別している時である。また自己境界線を意識する時でもある。このように自分自身について意識する場合、言い換えれば意識をもつものが他のものから自己 区別するような場合の"自分"というかんじを〈自我感覚〉と言う。 

 

〈自己とは何か〉という間いには、いくつかの答え方があるようだ。まず、自己とは〈自分の身体〉である。だが、身体にはコントロール不可能な部分など他者性有り。だから自己ことは伸縮自在な〈自己境界線の内部〉である、という次の答え。しかし、その自己境界線を意識するという〈自我感覚〉もある。 

 

このように〈自己〉とは明確に定まったものではない。そこで次なる〈意識的選択の主体は自己か〉という問い自体が崩れる。問い 訂正しつつ次へ進もうと思う。 

 


第二章 コミュニケーションプロセス

第一節 表現の流れ

 

コミュニケーションが〈表現〉と〈解釈〉とで成り立っているとする場合、我々の身体の〈表現〉とはどのようなものなのかを考えてみよう。 

 

[他者を、物理的全体として見たり、聞いたりして我々は感覚的データを刻々に得ているわけだが、加えて言語的・象徴的なデータも入ってくる。そうしてこの二種類のデータを、ことばを聞きながら身体運動を見ることで、 一つのより複雑な帯に組み上げるのである。 〕(18)

 

我々は、このようにして相手の信号を総合的な表現として受け取るのだが、同時にその反応として身体と言葉で表現してしまっている。特に身体の反応は我々の時間感覚から言うとほぼ同時に行われる。身体の反応は前章で見たように自我の介入を待たない場合が多い。 

 

〈表現〉する身体と他者の表現に反応し〈解釈〉する身体とは同じ身体なのである。身体のコミュニケーションにおいては、〈解釈〉をしている状態の身体がすでに〈表現〉しているのだ。 

 

ところで情報交換によって相互理解しようとする場合は、〈表現のまとまり〉つまり意味をもつ象徴表現を重要視する。自分の意図通り正しく伝えようとすると、その目的にかなった的確な表現を生み出そうとする。 

 

言葉、声の表情、顔の表情、身振り等の統合によって、例えば「私は怒っている」ということを伝えるとする。こぶしを握りしめたり、 顔をしかめたり、声を荒らげたり、また「怒っている」と言うことによって表現し伝えようとする。それらの表現は、自分にとって「 怒り」の象徴的表現なのだと思えば、そのような気もする。 

 

だが実際怒っている時に、全ての表現を怒りの表現だと自己解釈して用いてるわけではない。 「私がここで怒鳴れば効果的だろう」 と大声を出すことに決めたのは確かに自己解釈による表現と言える。 しかし本気で怒っているその瞬間、身体はすでにあらゆる表情を帯びている。体を緊張させたり、目を見開い たり、あるいは無表情を装った表情など。身体の表現は「このような表現で怒ろう」 という意志をもたずとも、身体のいたる部分で成 立している。身体表現は無意識性をもつ。 

 

また別の例では、気になる異性の前での身体表現なども自分の意識外のものである場合が多い。 私は「気にしている事を気付かれた 」と思っていても、表情その他あらゆる身体表現は確実に伝えている。 

 

身体の表現は、自我の目的とは別の目的をもって成されていることもあり得るのではないだろうか。身体を自我の目的を果たすため の道具としてでなく、自我も含めて身体そのものを主体として見れるのではないか。 また、 身体表現を〈身体の叫び〉として見ることはできないだろうか。 

 

自我の目的にかなう表現以外は意識されることが少ない。 特に、自己の身体表現は 時間の流れと共に切り捨てられていく。 

 

実際に身体コミュニケーションの中で表現は流れのごとく変化し続けている。身体は相手の表現に反応しながら、自己表現の流れを変えていくのである。従って、もし仮に自分が目的をもって表現し始めたとしても、その 過程で身体は相手と相互に影響し合う中で様々な表現をしている。表現の中で無意識のうちに その目的以上のものを伝えてしまっているのである。更に身体はその時々に己の目 的に従って表現し続けているのである。 

 


第二節 解釈の流れ

 

身体コミュニケーションにおける〈解釈〉とはどのようなものなのだろうか。表現媒体である身体から表現されたものと解釈するとは、どんな特徴を示しているのか。 

 

〔意味深長は笑いの場合、写真にとってそっくりそのまま二次元に移しかえただけでも、 

それが伝達している意味は失われてしまう。 高慢ちきな、あるいは不満そうなある 熱狂的な声の表情を発せられた音声をその まま書きとりながらそっくりに再現しようとする場合に、このような声によって伝達され る情報を通常の書式で再現する場合に見られ るのと同じ精密さを求めたりすれば、それは 全く空しい試みとなるだろう。 〕(20)

 

このような例 をあげてH.シュミッツは表情の〈転移不可能性〉を示す。 

転移不可能性とは、

 

〔表情のかたちをとって現れてくるような伝達はみな、伝達され呈示されるものが明らかに別種のものに移行してゆく場合はそれ自体が変化してしまう、つまり移しかえがきがないこと 〕(20)

 

である 。

 

表情による伝達が転移不可能であるということは、コミュニケーションにおける完全な表現理解があり得ないことを示す。なぜなら、

 

 [伝達されるものとしての一定の事態を一定の明瞭な〈表情の〉呈示へと関係づける規則 〕(20)

 

が完全でないためである。例えば、「肩をポ ンとたたく動作」がどんな意味を含んでいるのかということは、誰の、どのような状況下における動作なのかによって全く異なるのである。

 

そのような表現を「励ます行為」とか「誘う行為」、「あきらめを促す行為」という様にいくら〈言葉〉に置き換えてみても、その行為のもつ表情すべてを言い表すことはできない。

 

ある行為には、その瞬間にしか伝わらないニュアンスがあり、それを直後に言葉で理解しょうとしても不可能な事なのである。身体のあらゆる表現が表情を帯びて、そのニュアンスを作り上げているのである。

 

身体のコミュニケーションにおいて、表現を言葉で解釈するということは、〈表情〉を言葉に置きかえることで限定してしまうことなのである。

 

しかし我々の コミュニケーションは〈言葉〉が重要な役割を果たしている。我々は、

 

〔相手の言語象徴と身体プロセスとつきあわせて複合的に相手像を結ぶ。この場合二人は、生 物学的背景を文化的条件づけを共有しているので、お互いに理解可能なのである。〕(18) 

 

話し言葉は、声色語調など表情をもちながらも、それらとは独立した内容を表す。例えば「笑う」という言葉は、どんな声の調子で笑おうとも、笑うという行為と結び付いて いる。同じ日本人同士が「彼が笑っていた」 という言葉を理解し合えるのは、笑うという行為(顔面の筋肉の特定の動き等)を「笑う」 と言うというように生物学的背景と文化的条件を共有しているからである。 

 

しかし前述したように、その瞬間に彼が身体的にどんな表情で、どんな意図をもって笑ったかは厳密に言う尽すことはできない。また「笑う」という言葉が含む意味は個人のもつ経験の中で大きな星雲状に膨らんでしまっている。「大声で笑う」と限定しても、更に「大声」という言葉が二人の間で一致して全く同じ音量・音質等を表すはずはない。共通理解とは完全なものではないのだ。 

 

私がここで問題にしたいのは、 コミュニケーションの伝達内容ではなく、コミュニケーション行為の主体についてである。従って、「彼が笑っていた」 というような表現を解釈する側は、どのようなプロセスをたどるのかに注目したい。 

 

解釈する身体と表現する身体は同一である。相手の声を聞き、身体表現を見て反応し、 意識的あるいは無意識的な表現を連続的に行っている。どんな表現にどう反応するかの選択過程にはすでに〈解釈〉が含まれている。 

 

「彼が笑っていた」という声を聞いて、どの部分に反応しているのだろうか。笑っている彼の容姿、あるいは何について笑っているかの想像、または「笑っていた」と話す相手の表情・語調・身振り、それ以前の会話内容、相手の性格等々。 

 

解釈する側は、様々な部分に反応しているのである。それらすべての情報を次々に選択し続けながら反応し解釈し続けるのだ。 

 

コミュニケーションは、言葉の内容に最も意識が集中しやすい。また言葉に反応することが多い。しかし身体は意識の向けられている方向とは別に、相手のあらゆる表現に反応しているのではないだろうか。 そして、その過程を言葉で表現することなしに、次々と解釈しているのではないだろうか。 

 

身体コミュニケーションは、表現の流れと解釈の流れをほぼ同時進行するものである。 相手の言葉を自分の言葉に置きかえて意味づけている間にも相手の身体表現は続いており、自分の身体表現もなされているのである。

 

身体コミュニケーションにおける解釈を考える時、明確にしなければならないのは、〈解釈〉と〈正しい理解〉の違いである。 

 

正しい理解とは、表現のもつ表情の全てが 転移可能であると考える場合、つまり表現の全てをあらゆるレベルから言い尽せるという前提のもとに可能なものであり、厳密には前述の通り不可能である。 

 

では解釈とは何であろうか。自我意識の行う解釈は確かに、 意味を理解しようとする〈試み〉と言えるだろう。しかし身体コミュニ ケーションにおける解釈は、言語化を待たないものではないだろうか。 言葉を耳にし、表情を知覚した後、自我がそれを定義づけ、反応を決定するような限定されたものではなく、もっと直接的なものではないか。

 

身体コミュニケーションにおける〈解釈〉は、相互に影響し合った結果の〈個体内変化〉である。自我意識の介入しない個体内変化も身体による〈解釈〉なのである。

 

自我意識の働かないところで様々な情報に反応し身体表現に変化させている我々の身体。 各機能の解釈と自我の解釈(これも身体の作用だが)とが総合的に成されているのが我々の〈身体の解釈〉なのである。そして、身体相互間の影響による個体内変化は刻々と続いており、身体コミュニケーション解釈は流れのごときものと言えるのである。 

 


第三節 流れを阻止するもの

 

コミュニケーションプロセスにおける〈表現の流れ〉と〈解釈の流れ〉を見てきた。これらの流れは、方向は様々に変化し続けるが、流れ続けている。 この第三節では、身体コミュニケーションの円滑な流れを阻止するものについて考えてみたい。 

 

我々の自己境界線は伸縮自在であることは 第一章で述べた。自己境界線は、時と場合によりその領域を変えるわけだが、この境界線には必ず内側と外側がある。自己同一性というような堅いものではないにしても我々はある程度の統一性を保っている。自己境界線の捉え方は人によって異なるので、ある人は自己を鉄枠で囲まれたように変化のないものと思っているかもしれないし、またある人は自己とは環境と有機体組織としての体との交換スイッチのように捉えているかもしれない。 

 

このような

 

〔我々の心のもつ首尾一貫性、統一性は、既定の事実ではなく、外界の安定性、世界の一定性に支えられている。これらの安定性、一定性は架空の構造物である。 〕(21) 

 

我々が自己境界線を意識するのは、外部を発見したことによって、安定性が崩れた時である。

 

[外部とは内部の自己限界の意識によって再確認されるもの 〕(22) 

 

なのだ。それは、自己の身体の中でもコントロールできない部分は外部とされることを考えてみればよくわかる。 また、不意に侵入してくる他人の判断なども、 限界あるいは境界線を意識する契機となる。

 

[外部は、タームにして封じ込めてしまったとたん内部になってしまう。〕(22) 

 

例えば、 「あの人はこのタイプの人」というような分類をしてしまう場合。自分とは異なる外部として再 発見したにもかかわらず、相手は自己の内部へ言葉あるいは印象として納められてしまう。 自己境界線の内部に環境の一部が含まれるのは、 このような形によってである。

 

ところで、この自己境界線を意識する時まさに自己限界を感じたその時に、円滑なコミュニケションの流れが阻止されるのでは ないだろうか。自己限界を感じる時というのは、いったいどのような時なのだろうか。 

 

人類普遍の限界、それは〈死〉であろう。 「生」世界の安定が崩れ去る死の瞬間。他者の死は、直接自分の死とつながらないまでも、その情報にふれることによって、自己の外側から安定が崩れ、その統一性のもろさに直面せざるを得なくなる。 

 

コミュニケーションの流れの中で、死の情報にふれた時、人はどのような反応を示すのであろうか。安定を取り戻すための手段として次の三通りの方法が考えられる。 

 

まず、瞬間的に「他者の死」をタームとし て取り入れる。 これは、死そのものを直視す るのではなく、あくまでも別の形(言葉など)に変化させて自己境界線内に積極的に取り入れてしまうのである。 

 

次に、死の情報を排除してしまうという方 法。これは死の情報に関わろうとせず、自分とは無関係なものとして、自己境界線の外部 へ排除しようとする姿勢である。 

 

最後に、死の情報にそのまま反応し、身体 の選択に身を委せる方法。これは、その情報 による影響で個体内変化を起こすが、自我による操作が介入しない場合である。 

 

また〈死〉の他に自己限界を意識させる ものとして〈タブー〉がある。吉本隆明によれば、禁忌することは、時間と空間の意識を他界として観念化することだ、と言う。また、社会的諸制度の根源にはタブーが存在し、そ れによって社会、人間が成り立っていること は、〈統一性を保つ〉という面から考えても想像に難くない。このように他界観や社会的 諸制度などに関する情報は〈タブー〉的側面 つまり自己限界を意識させる面をもっている。 

 

栗本慎一郎は、タブーは「突破と破壊性の方向」を人間に与えたと言っている。身体が自己統一性や安定にむかうのみではないことを語っている。

 

〔禁止を侵犯することによってエロティシズムはその最大限の光輝にかがやく 〕(23) 

 

ということからタブーを侵すこと、 統一性を崩すことに快を認めることができる。つまり身体自らが統一性を崩そうとする場合もあるのだ。 

 

山口昌男は、

 

〔形が崩れるということは、変化することでもある。これば一度約束事で形が決まっているものが人間の意志とは無関係に崩れて、何かほかのものに向っていく、移行の過程に入っていくことである。この移る状態に置かれた時、人間は不安定な状態になる。その別の現われ方は〈混じる〉という ことだ。 〕(24) 

 

と述べている。ここで重要なのは、〈意志とは無関係に混じる〉ということであ る。自己統一性や安定性を自らの意志で突破 ・破壊するのとは異なり、不安が伴う。 

 

四谷怪談でお岩さんの顔面が崩れていくの を見ると恐怖を感じる。また、自分の周囲が 急に変化したり(例えば人間関係や環境の変化など)すると不安になる場合もある。このように、秩序が意志とは無関係に崩れていくような情報や、外部が内部になだれ込み混じってしまうように感じる情報は、自己境界線あるいは外界の安定性のもろさに直面させる。 

 

自己限界を感じさせる情報にぶつかる時、我々の身体は無意識に反応を選択している。 それは、〈積極的取り入れ〉〈排除〉など様々な形をとる。円滑なコミュニケーションの流れは、〈自己境界線の崩境〉に対処する瞬間に一時的に阻止されるのである 。

 


第三章 身体のコミュニケーション

第一節 身体の他者性と無意識

身体コミュニケーションは、主体が〈身体 〉であるために、様々な無意識性を伴ってい ることがわかった。 この節では、その無意識に焦点を絞ってまとめ、〈身体の他者性〉と は、どういう状況で成り立つ事柄なのかを考えようと思う。 

 

まず、これまで見てきた身体コミュニケー ションにおける〈無意識性〉についてまとめ よう。器官や有機体の活動が、自己や他者に よって知覚されるとコミュニケー ション行為となる。メッセージを伝える際、送り手の生理的状態に関する情報あるいは受け手の個体内変化は、各自に気付かれていない。これが大まかに見た無意識性つまりく意識されない〈情報交換〉である。 

 

更に、情報交換の送り手と受け手である、〈表現する身体〉と〈解釈する身体〉の無意識性をそれぞれ4つに分類してみた。 

 

表現する身体は、自我が目的をもって表現し始めたとしても、無意識にその目的以上のものを伝えてしまう。身体はすでにあらゆる表情を帯びているのである。これは表現する身体のもつ第1の無意識性〈自覚のない表情 〉である。

 

そして自我の目的とは異なる身体の目的を表現する場合、例えば平気な顔をしたい自我に反して身体が痛さを表現しているような時が第2の無意識性〈自我に反する身体の目的〉を示している。

 

またある行為はその瞬間にしか伝わらない ニュアンスを生み 出し、自己もそれを把握できないという第三の無意識性〈表現の偶然性〉。

 

最後に、身体表 現は連続で行われるため、要素的動作の選択 は自我感覚の介入を待たない速度で行われているという〈分化しきれない連続的動作〉を 表現する身体の第4の無意識性と呼ぶ。 

 

解釈する身体の無意識性についても4つに 分類してみよう、まず解釈する身体は相手や周囲の様々な部分に意識を向けている。視線のみではなく、過去や未来についてなど思考の方向まであらゆる方向へ意識を変化させ る。この意識の方向決定はほとんど自覚され ない速度で行われている。これが解釈する身 体の第一の無意識性〈自覚されない意識の方向決定〉である。

 

更に、意識が向けられ知覚 された場合でも、全てを言語化して解釈するわけではない がある手が動いた ようと言った、という具合に、言葉に置き換えながら理解していたのでは追いきれない。〈言語化しない解釈〉を第二の無意識性とす る。

 

また意識の方向とは無関係に、身体中を 周囲に反応しているので、〈身体独自の解釈 〉は第三の無意識性と言えよう。

 

最後に、知覚されていない多くの情報があることは、解釈の対象を身体が選択していることを示しており、これを第4の無意識性〈身体の自主選択〉とする。 

 

〈解釈〉している状態の身体はすでに〈表現〉している。 つまり解釈の途中だからといって表現がストップしているわけではないのだ。これは、〈身体表現の影響〉に関する無意識の可能性を示す。また自分の身体が解釈 しているのか表現して るのかを常に把握し でいるわけではないので〈身体の状況〉に関しても無意識性は大いにある。 

 

このように我々の身体は、様々な無意識性を伴って身体コミュニケーションをしている。 では、これらの無意識性が〈無意識〉であると言われる所以は何なのか。 

 

〈無意識〉とは読んで字のごとく、〈意識の無い〉ことを表している。その対象・事柄 に関して意識が働いていないということか。 

 

「意識不明」とは、全ての事柄に関して意識 が無くなることである。しかし、意識のある 状態でも、意識は別の方向に向いており、その時それ以外の部分が自主的に反応している場合は、それらは無意識の反応と言えるだろう。従って、〈無意識〉とは、意識がそこに 働いていないことを言う。

 

第一章では意識と自我を区別した。意識は自我が崩壊した後でも残る。従って自我の無い状態での身体コミュニケーション全てが、 〈無意識〉であるとは言えない。ただ、意識 がもうろうとした状態はらば、意識の方向決 定をコントロールできなくなるという意味で無意識の行為が増すであろう。それは例えば 相手と話そうと思えば話せるが、思い通りに話せないというようなことである。 

 

〈無意識〉とは意識の方向がそこに無いことであるとして、もう少し別の視点から考えてみたい 。それは ある特徴について無意識性を指摘する主体は何か、ということである。 「それは無意識であった」と気付く主体は誰かということについて次に考える。 

 

無意識の反応が行われる瞬間を我々は知らない。 「私が気付いてない」 のに反応していたから、それらは無意識と言われるのである。 気が付かなかった私とは、 いったい誰なのか それが〈自我〉なのである。自我が.「そこ に意識が働いていなかった」という事に気付 く。そして、その反応を〈無意識の反応〉と名付けるのである。 

 

例えば、「手が勝手に相手を殴った」と言う時、その無意識の反応がもつ意味は、〈コントロールできなかった〉ということである。自分で自由にコントロールできないことに気づいた時はじめて〈無意識〉という概念がでてくる。気付かなければ、無意識のまま であろう。 

 

第一章で、「自分の身体のコントロールがきかないと感じる機能を、環境の一部分であると呼ぶ」と説明した。自己の内部と外部を区別する、つまり自己境界線を意識するのは 自我感覚である。もし自我がこれに意識を向けなければ「自己」と「他者」の境界線もそれほど明確にはなっていない。従って、身体の一部分を他者扱いする、〈身体の他者性〉 を指適するのは〈自我〉なのである。 

 

このように述べると、自我の重要性を強調しているようだが、実は逆なのである。〈無意識〉や〈身体の他者性〉を指摘したり、そのように名付け、意味づけるのは確かに自我であるが、たとえ指摘されなくても身体は意識の働かない部分で多くの反応を行っているのである。自我が〈無意識〉と名付けるか否 かにかかわらず。 

 

身体コミュ ニケーションは自我がいかにあろうとも刻々と進行しているのである。表現と解釈の流れは途切れることがない。〈無意識〉とは気付かないことであるが、気付かずに〈無意識の反応〉を続ける身体。身体は 確かに〈他者性〉をもっているのである。 

 


第二節 相互理解と共振

 

コミュニケーションにおける重要な問題点は、〈自己が伝えたい内容〉と〈実際に相手 に伝わっている内容〉のキャップである。そ 

れは、いくら熱心に論理的に説明しても相手の理解を得られない(と感じる時の)原因の1つである。 

 

なぜ意図通りに伝わらないのか。その原因は、表現する側と解釈する側の両方にある。 相互の経験差や能力差あるいは言語自体の性質(つまり記号としての恣意性)が解釈のギギャップを生み出すことについては、文献などの解釈つまり書き言葉の解釈にも共通の問題であるとして、大きな原因であることは認めながらもここでは扱わないでおく。

 

話し言葉の表現と解釈、しかもリアルタイムで行われる対人コミュニケーションは、言葉の伝達のみに留まらない、身体コミュニケーションプロセスなのである。その身体コミュニケーションにおいて、その身体コミュニケーションにおいて、意図通りに伝わらない原因を考えようと思う。従って原因は、表現する身体と解釈する身体の両方にある。 

 

表現する身体が〈伝えたい内容〉を意識している場合、つまり「私が言いたいのは…」という時には、その主体はやはり自我である。 その自我が意図する通りには相手に伝わらないという事が問題になる。伝わっていないことをどうややって知るのか。それは相手の身体の(言葉も含めた)反応を知覚した時、自我が「伝わっていない」と評価することでわかる。 

 

表現する側の自我が〈伝えたい内容〉を意識している時、自己の身体に意識は向かない。 身体はその時、無意識状態にある。 しかし、その身体がすでに何かを表現してしまってい ることは前述した。身体の動きは、各細胞の自己選択の結果である。それらは時に自我の目的に反する身体独自の目的をもって反応しているのである。つまり、自我が伝えたい内容とは異なる〈身体が伝えたい内容〉をもつ可能性もある。そして実際にそれらが相手に伝わってしまっている。

 

表現する身体は、自我が伝えたい内容以上のものを伝えており 身体全体としては、伝えたい内容を伝えるということに成功しているのである。 しかし自我にとっては「思いもよらぬ失敗」 に思える場合がある。例えば、有好的な内容を自分としては伝えているつもりでも、身体 が相手の存在を拒否する事を望むような場合がこれである。身体の表現が伝えるのに成功しているにもかかわらず、自我の評価は〈伝えたい内容〉が伝わっていないということになる。 

 

表現する側のもつ原因とは、前節でまとめた〈表現する身体の無意識性〉によるもので あると言えよう。つまり〈自覚のない表情〉〈自我に反する身体の目的〉〈表現の偶然性〉〈分化しきれない連続的動作〉などである。 これらは自我の意図を助ける場合もあれば、 邪魔する場合もあり、総合的には身体の目的にかなった表現を生み出しているのである。 

 

次に解釈する側の原因であるが、これも同じく〈解釈する身体の無意識性〉にまとめることができる。つまり〈自覚されない意識の方向決定〉〈言語化しない解釈〉〈身体独 自の解釈〉〈身体の自主選択〉など。相手の話題のみに意識を集中しているわけではなく、 また全ての表現を言語化して理解しているわけでなく、身体の各部分で個体内変化がおこってしまうこと、 反応するもの排除するものの選択をしてしまっていることが、解釈する側のもつ原因なのである。相手の自我が伝え たい内容のみに意識的に反応しているわけではないということなのだ。 

 

たとえ、意識を話しの内容に向けていても、 身体はすでにあらゆる部分で反応している。 言葉で返答したものだけが解釈内容ではないのは言うまでもない。先の例で、有好的な内容以外に嫌悪している身体表現が伝わった場合、解釈する身体は両方の表現を無意識に解釈し、身体表現に変化させている。そのフィードバックされたものを表現した側が評価するわけである。 

 

〈伝えたい内容〉が意図通りに伝わっていないと評価する自我は、自己の身体表現が伝 わっているという事実には気付かない。 

 

こうして見ると、我々の身体コミュニケー ションにおいて〈伝える〉という事 がどういうことなのか、更に〈相互理解〉とは何かという間にぶつかるのである。 

 

身体コミュニケーションは、 〈自己表現〉と 〈他者解釈〉を目的とすると考えよう。その場合の表現とは、自我も含めた身体の表現 であった。また他者解釈とは、他者の身体表 現を身体が解釈することである。自我では計り知れない生き生とした交流が身体間で成立しているのである。 

 

中村雄二郎は、他者理解について次のように説明している。

 

[他我の理解は、重層的は表現をただ知的に読み取るだけでは不十分であり、是非ともそこに、さらに体性感覚を基礎にしたく共通感覚〉と〈リズムの共振>とが 働いていなければならない。 〕(25) 

 

彼は〈共通感覚の基礎にある体性感覚(触覚・筋肉感覚・運 動感覚)を強調する。そして活動する身体に 関わる共通感覚(五感を統合する感覚)が他者の身体表現を理解可能にしているという。 

 

また、他我の表現を読みとって、その経験を内在的に理解するためには、リズムの共振あるいは共鳴が必要であり、理解できない場合は表現している相手のリズムがうまく掴めず共振できないでいるからであると説明している。彼はこのリズムを音波や電波の振動数にたとえている。 

 

私は、リズムの共振を

 

[「気」の作用と呼ばれるもの 〕(26) 

 

と関連させて考えたい 。

 

「 気」という字は「「気が合う」「気が大きい」「気が長い」「気が短い」など見えないものを表現する時に使う。 空気・大気・磁気・電気のようは見えない力、天気・寒気のような天候や気象。気配・雰囲気のようにわからないもの。 

 

「気功法」とは 「気」をコントロールすることによって治療などをする方法である。 気功師の集中した指先から遠赤外線が出たり、温度が上昇し、指をふれている相手の身体の 温度が上昇したりすることが実験で知られている。(見えない力を視覚化したわけだ) 

 

このように「気」は人と人の脳波分布のパ ターンを同じにするなど、人間関係にも影響するものである。 「気」を特別な作用として見るのではなく、物理的エネルギーとか身体のゆらぎを感知することによって個体内変化が起こるプロセスとして考えれば、〈リズムの共振〉と通じるのではないだろうか。 

 

〈共通感覚〉や〈リズムの共振〉のもつ重要な意味は、それが身体の相互理解を可能にしているとうことにある。今まで述べてきた表現と解釈の同時進行は、リズムの共振という形で実現されているのではないか。 もし身体の相互理解がリズムの共振つまりfitするような形で成立しているならば、表現と解釈の時間差なしに、身体の相互理解が可能になるのではないだろうか。 

 

中村雄二郎の他者理解とは、あくまでも自我による他我理解であり、従ってくリズムの〈共振〉が自我に把握されることが重要になる。 だが身体コミュニケーションの無意識性を見てきた限りでは、自我の介入しない他者理解の可能性があるのではないか。理解というと誤解を生むかもしれないが、自己の身体が 無意識のうちにリズムの共振によって他者の身体表現を受け止め反応する場合、それも他者理解の一形態と言うことはできないだろうか。

 

他者とは活動する身体としての他者であり、自己も同じく活動する身体としての自己である。刻々と感覚的データを交換し続ける二人の相互理解が、共振感覚とリズムの共振によって無意識の身体的理解を含んでいると言うことができるのではないだろうか。

 


第三節 身体と意志

 

我々は身体コミュニケーションについて様々な方向から焦点をあててきたが、更にもう一歩進めてみたい。

 

無意識性を伴う身体コミュニケーションに とって〈意志〉はどのような役割をもっているのか。 

 

例えば、誰かとコミュニケーションをしていて、相互理解を深めたいとする。あらゆる言動で自己表現し、相手の反応を知ろうとするだろう。二人の世界観は異っていて当然で ある。意見も違うだろう。ところが、その前提を理解していながら、そこで通じ合える場合と、通じ合えない場合がでてくる。それは何故なのか。 

 

ベイトソンはその通じる>という状態 を〈接合(fit)が起こる〉と説明している。 

 

[二人の世界観が異っていても、それだけで葛藤にはならない。〈接合(fit)が起こる〉ように、言い方は補完的であるが、二人が非相称的関係で協力することが考えられるのである。 〕(27) 

 

つまり、接合(fit)するように協力する姿勢をもっていれば、意見の違いは問題にならない、ということなのだ。

では、接合(fit)するための協力的な姿勢とは、具体的にどうすることなのか。

 

二人が通じ合っていない場合、あるいは通じ合おうとする場合、そこには何らかの形で協力が必要とされる。会話の食い違いは、単に言葉の解釈や、考え方の違いだけが原因なのではない。原因は、通じ合おうとする〈意志〉が欠けているところにある。互いが、その意志をもって接合するための協力をすれば、冷静に互いの解釈や考え方の〈差〉を確認できるのである。

 

ところが、身体的コミュニケーションの特徴は、その無意識性にある。ある方向を意識すれば、それ以外の全てが無意識になるのだ。この身体が、どのような形で意志をもち得るのだろうか。

 

その鍵がくリズムの共振〉にあるのではないか。 リズムの共振をめざすこと、つまり全身で相手の身体のリズムを掴もうとすること。 それが無意識性をもつ身体的コミュニケーシ ョンにおける〈意志〉のあり方、あるいは協力の姿勢ではないだろうか。 

 

むろん、リズムの共振が実現し、互いに通じ合った接合状態を感じたとしても、身体の 無意識の表現や解釈は続くであろう。だが、 それらは相互理解を妨げるものにはならないであろう。 

 

このように相互理解の前提として〈意志〉 の働きを見てきたわけだが、これはプラスの要素であることを忘れてはならない。この接合への意志があろうが無かろうが、 我々の身体は日常生活の中でコミュニケーションを続けているのである。無意識性をもつ身体にとって、意志はあくまでも自我の産物なのである 。

 

身体にとっては、自我の目的が〈自己表現〉であろうと〈他者理解〉であろうとも、それほど重要な問題ではないかもしれない。身体同士がすでに影響し合っているのである。自我が〈意志〉をもとうが持つまいが。 

 

身体のコミュニケーションは、自我が意識できる部分だけではない 。身体と身体のリズムの響き合いで、あるいは知覚による反応で、刻々と影響し合っているのである。このような無意識の生き生きとした交流が、我々の身体的コミュニケーションのベースとなっているのである。 

 

我々の身体は、言葉や自我に縛られるものではない。全身に意識を配り、身体コミュニケーションを生きることから、 日常生活に新しい視野を開くことことができるだろう。またたとえ意識せずとも、身体コミュニケーションは生き生きと行われ、相互に変化を促しているのであろう。 

 


注釈

主な註釈

■主な参考文献は、次の略符号によって引用 

★COM(G・ベイトソン/J・ロイシュ著『コミュニケーション』1951 佐藤悦子訳 思索社)

★DIS(植島啓司×伊藤俊治 『ディスコミュニケーション』1988 リブロポート)

註釈一覧

(1) COM,  4頁(J・ロイシュ)

(2) COM,  23頁(J・ロイシュ)

(3) ライアル・ワトソン 『スーパー・ネイチャー』(牧野賢治訳 蒼樹書房)

(4) 武者利光 『ゆらぎの世界』(講談社) 125頁 

(5) 同書 141頁 

(6)同書 144 145頁 

(7)フロイド・E・ブルーム 『脳の探険(下)』 (久保田竸監訳講談社) 24頁 

(8)D・ボブスタ 「プールの夢よさらば」 (『中央公論』1985,9月号所収、414頁) 

(9)COM, 34頁(J.ロイシュ 

(1) DIS, 246頁 (植島啓司) 

(1) COM, 204頁(G・ベイトソン) 

(12) DIS, 9-10頁(植島啓司) 

(13) CCM, 203頁(G・ベイトソン) 

(14) DIS, 10頁(植島啓司) 

(15) DIS, 10頁 (植島啓司) 

(16) R・D・レイン 『生の事実 』(塚本・笠原訳みすず書房)

(17) DIS,78-79頁(伊藤俊治) 

(18) COM, 223頁 (G・ベイトソン) 

(19)COM, 198-199頁  (G・ベイトソン) 

(20) ヘルマン シュミッツ 「身体と感情の現象学』1986, 131頁 

(21)埴島啓司『ヴィクター・ターナー 』 (「現代思想」〈現代アメリカの思想》) 

(22) 小松和彦×栗本慎一郎『経済の誕生日143頁 

(23) 足立和浩(岩波講座哲学12巻)132頁 

(24) 山口昌男『知の祝祭』(河出文庫)366頁 

(25) 中村雄二郎『他者理解と共振・覚え書き』(理想社,1988年春第638号「理想」) 

(26)『気を科学する』(講談社「クォーク」12月号) 

(27) COM, 226-227頁(G・ベイトソン) 

 

図の註釈

 

(図1) COM,204頁(G・ベイトソン) 

(図2) COM,202頁(G・ベイトソン) 


2022年11月24日公開 inner-wish

卒業論文(1983年)


inner-wish補足

卒業論文-身体のコミュニケーション〜無意識性を探る【インナーウィッシュ】
卒業論文-身体のコミュニケーション〜無意識性を探る【インナーウィッシュ】

 

『身体のコミュニケーション〜無意識性を探る』という30年前の卒業論文を掲載した理由は、「無意識の情報交換」がインナーウィッシュにとって重要なテーマだからです。

 

身体レベルや様々な周波数レベルで交わされる「無意識の情報交換」は、コミュニケーションの中で重要な位置を占めています。意識が拡大すると「無意識の情報交換」の感度が増し、送受信量も増加するため、この「無意識の情報交換」をどのように取り扱うかは更に重要度を増しています。

 

インナーウィッシュに数多く寄せられる、対話や相互理解の問題についても、多くの場合、この「無意識の情報交換」がトラブルの原因となっているように思います。ですから日常生活の中で対話を改善していくためにも、「無意識の情報交換」について知っておくことは役立ちます。これは、単にダブルバインド的な意味ではなく、もっと多重層レベルで(例えば全てのチャクラレベルで)情報交換している上に、様々な無意識の身体反応も情報交換されている、というようなイメージです。

 

これまでインナーウィッシュで数多く掲載してきました、心身霊の調和や、思いの調和は、「無意識の情報交換」の点からも非常に重要な内容です。

 

また、日本人に多く存在するというHSPやエンパスについては、私自身がそのような体質(遠隔の人の体調や思念を受信する)であるため、まだ「HSPやエンパス」という名前も知らない、情報が少なかった学生時代から調べ始めていました。これは、身体レベルやその他の周波数レベルで交わされる、「無意識の情報交換」に関する感度が高いことが原因だと思います。この方向からも、「無意識の情報交換」の取扱いについて調べていきたいと思っています。

 

エンパス体質のうち、身体的共感については『共感の崖と身体的共感』という記事で紹介しています。他者の身体が経験していることを自分の体で感じる件については、私の場合、900キロも離れた場所にいる人の身体経験を受け取るようなこともあるので、どういう仕組みなのか今後詳細を調べていきたいと思っています。 

 

さらに、インナーウィッシュでは日常生活の変容・自己変容を目的としています。この変容とは「意識の変容」を意味しています。「意識」の「変容」とは、どのようなものなのかを様々な方向から表現していくことも役割の一つです。「意識」については、「無意識の情報交換」と合わせて、今後も様々な説明を探していく予定でいます。

 

「無意識の情報」「高次の情報」の情報処理を具体的にイメージするために、脳や身体の物理的な情報、哲学・心理学・宗教、古来からの智慧、IT業界のデータ通信、など様々な方向から、今後も引用・説明をしていきたいと思っています。

 

皮膚感覚については『皮膚の意識・無意識』という記事で紹介しました。

 

このように様々な理由から、インナーウィッシュの研究テーマの核になる情報だと思い、本論文を掲載しました。これから意識の拡大により、「無意識の情報交換」の感度が増し、送受信量も増加する人が増加するものと思われます。その際のお役に立てますように願っています。

 

ちなみに、現在の考え方としては、「無意識の情報交換」の送受信を可能な範囲で意識化し、取捨選択してバランスを取る方向で説明しています。何よりも心身霊の調和や、思いの調和に心がけることが、「無意識の情報交換」を改善することにつながると思います。この方向性や方法についても、今後引き続き、実践・フィードバックと共に探求していきます。

 

●卒業論文-身体のコミュニケーション〜無意識性を探る

2022年11月24日 inner-wish

 


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