仏教の止観瞑想と現代における瞑想の意義について『仏教瞑想論』(蓑輪顕量氏/著)より引用しています。
以下の紹介内容は、すべて下記より引用しています。
『仏教瞑想論』蓑輪顕量/著
【参考】
『仏教瞑想論』
著者:蓑輪 顕量
出版:春秋社
初版:2008年12月1日
第5版:2021年3月20日
小見出しは著書より使用。文章は抜粋して引用しています。
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インドの古代から現代の日本に至るまで、広大な時間と空間を対象に、仏教の修行道を探求してきました。最後に、ここでまとめをします。
まず、仏教の修行道は、インドの古代、非アーリア的な要素を持って始まったということは、まず間違いないでしょう。古代インドのドラヴィダ系の人々の眼差しから始まったに相違ありません。それは、アーリアの人々の関心としても継承されていきました。
やがて輪廻の思想とあいまって、大きな発展を見せました。輪廻の原因を造っている行為、その行為を生み出す思念、その思念に対する知識を集積させていったのです。
まず最初は、心に生じる思念を静めることが目指されました。しかし、普通の生活をしていては心は観察しづらいものです。なるべく観察しやすい環境を作るために、戒めが設けられました。
たとえば人のものを盗んだりすれば、見つからないか不安になったり、自責の念に駆られたりで、しかりと自分の心を見つめることはできません。ですから、「戒」は仏教の「三学」の最初のものとして存在します。
その次が「定」、すなわち心の観察です。そして、実際に、心に思念が生じるたびごとに気づき続けていると、次第に思念が生じなくなることに気がついたのでしょう。それはまさしく体験知、臨床知の世界のことでした。
次に、積極的に思念を静めるための工夫を考案しました。それが呼吸に思念を結びつけることでした。入息、出息との言葉で表現されていますが、息が入ってくるときに「入る」と気づき、出ていくときには「出る」と気づく、とても単純なことから始まりました。
その実践の過程で、心に生じるさまざまな働きに気づくようになります。それに一つ一つラベルを貼るように気づき続けていきます。
そして、最初から気づき続けていた入息出息の気づきを継続しているうちに、心の働きが静かになり、やがて心に全く何も生じない、という究極の状態に到ったのでしょう。これが滅尽定と呼ばれる状態です。
このように、心の働きを静める方向でされる観察が「サマタ(止)」であったと位置付けることができます。
ところが釈尊の伝記にもあるように、そのような静かな状態から出てくれば、また前と同じようにさまざまな感情が生じました。時には憂や悲しみ、喜びや怒りが生じます。
そこで、これを解決する別の方法があるのではないかと考え、実践されるようになったものが「ヴィパッサナー」すなわち「観」です。
観においても、身体の動きや入息、止と同じように観察されます。また、私たちの認識に関わる感受作用も、それは感覚機能といってもよいと思いますが、それらがすべて気づかれる対象になります。
そのうえで、観には二つの方向性がありました。一つは、観察されているものが、捉まえられる対象と捉まえている心の働きに二分されることに気づくという方向性です。
たとえば、入る息、出る息で具体的に表せば、捉まえられている風の動きのようなものがあって、それにラベルを貼るが如くに「入る」と気づいています。捉まえられている風の動きは、短い時間の間だけ生じては存続し、そして滅していきます。
それと合わせて生じている捉まえる心の方も、捉まえられる対象に依存して生じては存続し、そして滅していきます。
このように、捉まえられる対象としてのルーパすなわち色も、捉まえている心の働きのナーマすなわち名も、短い時間に生じては存続し、そして滅していくことが実感されるようになります。
このように、名色への分離がなされ、無常であり苦であり無我であるという、仏教の基本的な理解が導かれることになります。これが観の一つの方向性です。そして、ここで得られる知見こそ、「慧」すなわち智慧にほかなりません。
観におけるもう一つの方向性は、感覚機能と認識の構造に気づくことです。
私たちの心は、外界の刺激を受けとめて、それに対してある決まった反応を起こして、さまざまな判断や感情を起こしています。
その一連の動きを途中で意識化して気づくことによって、心が次の段階の反応に進まないということにも気づいたのだと思います。
ですから、心の最初のところで反応を止めることで、さまざまな感情や判断を生じさせずにすむようになること、すなわち、ものごとをあるがままに受け止めることを、仏教はめざしたのだと思います。これこそが、仏教の実践道において、もっとも大切と考えられたところではなかったかと思います。
なお、心に生じてくるさまざまなものの中には、自分が過去に体験した嫌な思いやわだかまりの元になっているものであることもあります。それに執着することなく、また嫌悪感を抱くことなく気づき続けることによって、そのようなわだかまりの元を解消することも可能になります。
そもそも、仏教は体験の宗教であり、その体験とは心の観察を意味しました。それは止と観との言葉で表現されました。心の動きを静める止を実践し、自分の心の動きを容易に捉まえられるようにします。
次いで観を実践することによって、心の働きが生じては滅するものであることを体得します。また、同じく観によって、自分の心に生じる、さまざまな反応を最初の段階で止められるようにします。
こうなれば、人生において不安や恐怖におののくことは次第になくなっていきます。なにが起きても泰然として受けとめて積極的に対処していく、すなわち生きていくことができるようになるはずです。
では、その際に、何を基準にしてどのように行動していけばよいのでしょうか。その時に重要なものが、「四無量心」と呼ばれる心です。
それらは「慈しみ(慈)」、「憐れみ(悲)」、「喜び(喜)」、「とらわれのないこと(捨)」であり、「四梵住」とも呼ばれますが、このような心をあわせもっていれば、他者に対して、また世界に対して積極的に関わっていくことができます。
それらを身につけるためには、心の中で、または口に出して、「すべての生きとし生けるものが幸せでありますように。すべての生きとし生けるものの自ら得た喜びがなくなりませんように、すべての生きとし生けるものがそれそれの行ないの引き受け手でありますように」と祈ることは、一つの方法であると思います。
以上の紹介内容は、すべて下記より引用しています。
『仏教瞑想論』蓑輪顕量/著
【参考】
『仏教瞑想論』
著者:蓑輪 顕量
出版:春秋社
初版:2008年12月1日
第5版:2021年3月20日
小見出しは著書より使用。文章は抜粋して引用しています。
画像については、無料素材を編集して使用しています。
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まず落ち着いて次にできることを考える、ということは役立ちます。落ち着いてよく考えることで、感情と行動を切り分け、冷静に対策を考えて選ぶことができます。