仏教の開祖であるゴータマ・ブッダ(釈尊)を歴史的人物としては把捉するとき、その生き生きしたすがたに最も近く迫りうる書――少なくともそのうちの一つ――は、『スッタニパータ』であると言っても過言ではないであろう。『ブッダのことば スッタニパータ』中村元/訳より抜粋
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ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫) 文庫
【参考】
『ブッダことば スッタニパータ』
中村元/訳 岩波文庫
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仏教の開祖であるゴータマ・ブッダ(釈尊)を歴史的人物としては把捉するとき、その生き生きしたすがたに最も近く迫りうる書――少なくともそのうちの一つ――は、『スッタニパータ』であると言っても過言ではないであろう。
本書の題名『ブッダのことば』は『スッタニパータ』(Sutta-nipata)の訳である。「スッタ」とは「たていと」「経」の意味であり、「ニパータ」とは集成の意味である。
『ブッダのことば(スッタニパータ)』は、現代の学問的研究の示すところによると、仏教の多数の諸聖典のうちでも、最も古いものであり、歴史的人物としてのゴータマ・ブッダ(釈尊)のことばに最も近い詩句を集成した一つの聖典である。シナ・日本の仏教にはほとんど知られなかったが、学問的には極めて重要である。これによって、われわれはゴータマ・ブッダその人あるいは最初期の仏教に近づきうる一つの通路を持つからである。
(訳者・中村元氏の解説より抜粋)
●第一 蛇の章 五、チュンダ
八三 鍛冶工の子チュンダがいった、「偉大な智慧ある聖者・目ざめた人・真理の主・妄執を離れた人・人類の最上者・優れた御者に、わたしはおたずねします。――世間にはどれだけの修行者がいますか?どうぞお説きください。」
八四 師(ブッダ)は答えた、「チュンダよ。四種の修行者があり、第五の者はありません。面と向かって問われたのだから、それらをあなたに明かしましょう。――<道による勝者>と<道を説く者>と<道において生活する者>と及び<道を汚す者>とです。」
八五 鍛冶工チュンダはいった、「目ざめた人々は誰を<道による勝者>と呼ばれるのですか?また<道を習い覚える人>はどうして無比なのですか?またおたずねしますが、<道によって生きる>ということを説いてください。また<道を汚す者>をわたしに説き明かしてください。」
八六 「疑いを超え、苦悩を離れ、安らぎ(ニルヴァーナ)を楽しみ、貪る執念をもたず、神々と世間とを導く人、――そのような人を<道による勝者>であると目ざめた人々は説く。
八七 この世で最高のものを最高のものであると知り、ここで法を説き判別する人、疑いを絶ち欲念に動かされない聖者を、修行者たちのうちで第二の<道を説く者>と呼ぶ。
八八 みごとに説かれた<理法にかなったことば>である<道>に生き、みずから制し、落ち着いて気をつけていて、とがのないことばを奉じている人を、修行者たちのうちで第三の<道によって生きる者>と呼ぶ。
八九 善く誓戒(せいかい)を守っているふりをして、ずうずうしくて、家門を汚し、傲慢で、いつわりをたくらみ、自制心なく、おしゃべりで、しかも、まじめそうにふるまう者、――かれは<道を汚す者>である。
九〇 (かれらの特徴を)聞いて、明らかに見抜いて知った在家の立派な信徒は、『かれら(四種の修行者)はすべてこのとおりである』と知って、かれらを洞察し、このように見ても、その信徒の信仰はなくならない。かれはどうして、汚れた者と汚れていない者と、清らかな者と清らかでない者とを同一視してよいであろうか。」
●第一 蛇の章 六、破滅
二一 つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境地である。つとめ励む人々は死ぬことが無い。怠りなまける人々は、死者のごとくである。
二六 知慧乏しき人々は放逸にふける。しかし心ある人は、最上の財宝(たから)を守るように、つとめはげむのをまもる。
二九 怠りなまけている人々のなかで、ひとりつとめはげみ、眠っている人々のなかで、ひとりよく目醒めている思慮ある人は、疾くはしる馬が、足のろの馬を抜いてかけるようなものである。
三一 いそしむことを楽しみ放逸におそれをいだく修行僧は、微細なものでも粗大なものでもすべての心のわずらいを、焼きつくしながら歩む。――燃える火のように。
三二 いそしむことを楽しみ、放逸におそれをいだく修行僧は、堕落するはずはなく、すでにニルヴァーナの近くにいる。
●第一 蛇の章 七、賎しい人
「ゴータマさん(ブッダ)。わたくしは人を賎しい人とする条件をも知らないのです。どうか、わたくしが賎しい人を賎しい人とさせる条件を知り得るように、ゴータマさんはわたくしにその定めを説いてください。」
一一六 「怒りやすくて恨みをいだき、邪悪にして、見せかけであざむき、誤った見解を奉じ、たくらみのある人、――かれを賎しい人であると知れ。
一一七 一度生まれるもの(胎生)でも、二度生まれるもの(卵生)でも、この世で生きものを害し、生きものに対するあわれみのない人、――かれを賎しい人であると知れ。
一一八 村や町を崩壊し、包囲し、圧制者として一般に知られる人、――かれを賎しい人であると知れ。
一一九 村にあっても、林にあっても、他人の所有物をば、与えられないのに盗み心をもって取る人、――かれを賎しい人であると知れ。
一二〇 実際には負債があるのに、返済するように督促されると、『あなたからの負債はない』といって言い逃れる人、――かれを賎しい人であると知れ。
一二一 実に僅かの物が欲しくて路行く人を殺害して、僅かの物を奪い取る人、――かれを賎しい人であると知れ。
一二二 証人として尋ねられたときに、自分のため、他人のため、また財のために、偽りを語る人、――かれを賎しい人であると知れ。
一二三 或は暴力を用い、或は相愛して、親族または友人の妻と交わる人、――かれを賎しい人であると知れ。
一二四 己は財豊かであるのに、年老いて衰えた母や父を養わない人、――かれを賎しい人であると知れ。
一二六 相手の利益となることを問われたのに不利益を教え、隠し事をして語る人、――かれを賎しい人であると知れ。
一二七 悪事を行なっておきながら、『誰もわたしのしたことを知らないように』と望み、隠し事をする人、――かれを賎しい人であると知れ。
一二八 他人の家に行っては美食をしてもてなされながら、客として来た時には、返礼としてもてなさない人、――かれを賎しい人であると知れ。
一二九 バラモンまたは<道の人>、または他の<もの乞う人>を嘘をついてだます人、――かれを賎しい人であると知れ。
一三〇 食事のときが来たのに、バラモンまたは<道の人>をことばで罵り食を与えない人、――かれを賎しい人であると知れ。
一三一 この世で迷妄に襲われ、僅かの物が欲しくて、事実でないことを語る人、――かれを賎しい人であると知れ。
一三二 自分をほめたたえ、他人を軽蔑し、みずからの慢心のために卑しくなった人、――かれを賎しい人であると知れ。
一三三 ひとを悩まし、欲深く、悪いことを欲し、ものおしみをし、あざむいて(徳がないのに敬われようと欲し)、恥じ入る心のない人、――かれを賎しい人であると知れ。
一三四 目ざめた人(ブッダ)をそしり、或いは出家・在家のその弟子(仏弟子)をそしる人、――かれこそ実に最下の賎しい人である。
一三五 実際は尊敬されるべき人ではないのに尊敬されるべき人(聖者)であると自称し、梵天を含む世界の盗賊である人、――かれを賎しい人であると知れ。
わたくしがそなたたちに説き示したこれらの人々は、実に<賎しい人>と呼ばれる。
●第一 蛇の章 八、慈しみ
一四三 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直(なお)く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。
一四四 足ることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪(むさぼ)ることがない。
一四五 他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏(あんのん)であれ、安楽であれ。
一四六 いかなる生物生類(いきものしょうるい)であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉(ことごと)く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、繊細なものでも、粗大なものでも、
一四七 目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
一四八 何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの思いをいだいて他人に苦痛を与えることを望んではならない。
一四九 あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。
一五〇 また全世界に対して無量の慈しみの意(こころ)を起すべし。上に、下に、また横に、障害なく恨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。
一五一 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりたもて。この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。
●第一 蛇の章 一〇、アーラヴァカという神霊
わたくしが聞いたところによると、――あるとき尊き師(ブッダ)は、アーラヴィー国のアーラヴァカという神霊(夜叉)の住居に住みたもうた。
アーラヴァカ神霊は、師に次の師をもって呼びかけた。――
一八一 「この世で人間の最上の富は何であるか?いかなる善行が安楽をもたらすのか?実に味の中での美味は何であるか?どのように生きるのが最上の生活であるというのか?」
一八二 「この世では信仰が人間の最上の富である。徳行に篤いことは安楽をもたらす。実に真実が味の中での美味である。智慧によって生きるのが最高の生活であるという。」
一八三 「ひとはいかにして激流を渡るのであるか?いかにして海を渡るのであるか?いかにして苦しみを越えるのであるか?いかにして全く清らかとなるのであるか?」
一八四 「ひとは信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。勤勉によって苦しみを超え、智慧によって全く清らかとなる。」
一八五 「ひとはいかにして智慧を得るのであるか?いかにして財を獲(え)るのであるか?いかにして名声を得るのであるか?いかにして交友を結ぶのであるか?どうすればこの世からかの世に赴いたときに憂いがないのであろうか?」
一八六 〔師いわく、――〕「諸々の尊敬されるべき人が安らぎを得る理法を信じ、精励し、聡明であって、教えを聞こうと熱望するならば、ついに智慧を得る。
一八七 適宜に事をなし、忍耐強く努力する者は財を得る。誠実をつくして名声を得。何ものかを与えて交友を結ぶ。
一八八 信仰あり在家の生活を営む人に、誠実、真理、堅固(けんご)、施与(せよ)というこれら四種の徳があれば、かれは来世に至って憂えることがない。
一八九 もしも、この世に誠実、自制、施与、堪え忍びよりもさらに勝れたものがあるならば、さあ、それら他のものをも広く<道の人>、バラモンどもに問え。」
●第二 小なる章 一、宝
二二四 この世また来世におけるいかなる富であろうとも、天界における勝れた宝であろうとも、われらの全き人(如来)に等しいものは存在しない。この勝れた宝は、目ざめた人(仏)のうちに存在する。この真理によって幸せであれ。
二二六 最も優れた仏が賛嘆したもうた清らかな心の安定を、ひとびとは「(さとりに向かって)間をおかぬ心の安定」と呼ぶ。この<心の安定>と等しいものはほかに存在しない。このすぐれた宝は理法の<教え>のうちに存する。この真理によって幸せであれ。
●第二 小なる章 二、なまぐさ
二四二 「生物を殺すこと、打ち、切断し、縛ること、盗むこと、嘘をつくこと、詐欺、だますこと、邪曲を学習すること、他人の妻に親近すること、――これがなまぐさである。肉食することが<なまぐさい>のではない。
二四三 この世において欲望を制することなく、美味を貪り、不浄の<邪悪な>生活をまじえ、虚無論をいだき、不正の行ないをなし、頑迷な人々、――これがなまぐさである。肉食することが<なまぐさい>のではない。
二四四 粗暴・残酷であって、陰口を言い、友を裏切り、無慈悲で、極めて傲慢であり、ものおしみする性で、なんびとにも与えない人々、――これがなまぐさである。肉食することが<なまぐさい>のではない。
二四五 怒り、驕り、強情、反抗心、偽り、嫉妬、ほら吹くこと、極端の高慢、不良の徒と交わること、――これがなまぐさである。肉食することが<なまぐさい>のではない。
二四六 この世で、性質が悪く、借金を踏み倒し、密告をし、法廷で偽証し、正義を装い、邪悪を犯す最も劣悪な人々、――これがなまぐさである。肉食することが<なまぐさい>のではない。
二四七 この世でほしいままに生きものを殺し、他人のものを奪って、かえってかれらを害しようと努め、たちが悪く、残酷で、粗暴で無礼な人々、――これがなまぐさである。肉食することが<なまぐさい>のではない。
二四八 これら<生けるものども>に対して貪り求め、敵対して殺し、常に<害を>なすことにつとめる人々は、死んでからは暗黒に入り、頭を逆まにして地獄に落ちる、――これがなまぐさである。肉食することが<なまぐさい>のではない。
二四九 魚肉・獣肉(を食わないこと)も、断食も、裸体も、剃髪も、結髪も、塵垢にまみれることも、粗い鹿の皮(を着ること)も、火神への献供につとめることも、あるいはまた世の中でなされるような、不死を得るための苦行も、(ヴェーダの)呪文も、供犠も、祭祀も、季節の荒行も、それらは疑念を超えていなければ、その人を清めることはできない。
二五〇 通路(六つの機官)をまもり、機官にうち勝って行動せよ。理法のうちに安立し、ますうぐで柔和なことを楽しみ、執著(しゅうじゃく)を去り、あらゆる苦しみを捨てた賢者は、見聞きしたことに汚されない。」
●第二 小なる章 三、恥
二五三 恥じることを忘れ、また嫌って、「われは(汝の)友である」と言いながら、しかも為し得る仕事を引き受けない人、――かれを「この人は(わが)友に非ず」と知るべきである。
二五四 諸々の友人に対して、実行がともなわないのに、ことばだけ気に入ることを言う人は、「言うだけで実行しない人」であると、賢者たちは知り抜いている。
二五六 成果を望む人は、人間に相応した重荷を背負い、喜びを生ずる境地と賞賛を博する楽しみを修める。
二五七 遠ざかり離れる味と平安となる味とを味わって、法の喜びの味を味わっている人は、苦悩を離れ、悪を離れている。
●第二 小なる章 四、こよなき幸せ
わたくしが聞いたところによると、――あるとき尊き師(ブッダ)は、サーヴァッティーのジェーダ林、<孤独なる人々に食を給する長者>の園におられた。そのとき一人の容色麗しい神が、夜半を過ぎたころ、ジェータ林を隈なく照らして、師(ブッダ)にもとに近づいた。そうして師に礼して傍らに立った。そうしてその神は、師に詩を以て呼びかけた。
二五八 「多くの神々と人間とは、幸福を望み、幸せを思っています。最上の幸福を説いてください。」
二五九 諸々の愚者に親しまないで、諸々の賢者に親しみ、尊敬すべき人々を尊敬すること、――これがこよなき幸せである。
二六〇 適当な場所に住み、あらかじめ功徳を積んでいて、みずからは正しい誓願を起していること、――これがこよなき幸せである。
二六一 深い学識があり、技術を身につけ、身をつつしむことをよく学び、ことばがみごとであること―――これがこよなき幸せである。
二六二 父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、――これがこよなき幸せである。
二六四 悪をやめ、悪を離れ、飲酒をつつしみ、徳行をゆるがせにしないこと、――これがこよなき幸せである。
二六五 尊敬と謙遜と満足と感謝と(適当な)時に教えを聞くこと、――これがこよなき幸せである。
二六六 堪え忍ぶこと、ことばのやさしいこと、諸々の<道の人>に会うこと、適当な時に理法についての教えを聞くこと、――これがこよなき幸せである。
二六七 修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎ(ニルヴァーナ)を体得すること、――これがこよなき幸せである。
二六八 世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること、――これがこよなき幸せである。
二六九 これらのことを行うならば、いかなることに関しても敗れることがない。あらゆることについて幸福に達する――これがかれらにとってこよなき幸せである。
●第二 小なる章 五、スーチローマ
わたくしが聞いたところによると、――あるとき尊き師(ブッダ)は、ガヤー(村)のタンキタ石床におけるスーチローマという神霊(夜叉)の住居におられた。
スーチローマという神霊は、次の詩を以て、師に呼びかけた。――
二七〇 貪欲(とんよく)と嫌悪(けんお)はいかなる原因から生ずるのであるか。好きと嫌いと身の毛のよだつこと(戦慄)とはどこから生ずるのであるか。諸々の妄想はどこから起こって、心を投げ打つのであるか?――あたかもこどもらが烏を投げ捨てるように。
二七一 貪欲と嫌悪とは自身から生ずる。好きと嫌いと身の毛のよだつこととは、自身から生ずる。諸々の妄想は、自身から生じて心を投げ打つ、――あたかもこどもらが烏を投げ捨てるように。
二七二 それらは愛執から起り、自身から現われる。あたかも榕樹(パニヤン)の新しい若木が枝から生ずるようなものである。それらが、ひろく諸々の欲望に執着していることは、譬え場ば、蔓草が林の中にはびこっているようなものである。
二七三 神霊よ、聞け。それらの煩悩がいかなる原因にもとづいて起こるかを知る人々は、煩悩を除きさる。かれらは、渡りがたく、未だかつて渡った人のいないこの激流を渡り、もはや再び生存を受けることがない。
●第二 小なる章 一〇、精励
三三一 起(た)てよ、坐れ。眠って汝らになんの益があろう。矢に射られて苦しみ悩んでいる者どもは、どうして眠られようか。
三三二 起(た)てよ、坐れ。平安を得るために、ひたすらに修行せよ。汝らが怠惰でありその〔死王の〕力に服したことを死王が知って、汝らを迷わしめることなかれ。
三三三 神々も人間も、ものを欲しがり、執着にとらわれている。この執着を超えよ。わずかの時をも空しく過ごすことなかれ。時を空しく過ごした人は地獄に墜ちて悲しむからである。
三三四 怠りは塵垢である。怠りに従って塵垢がつもる。つとめはげむことによって、また明知によって、自分にささった矢を抜け。
●第二 小なる章 一一、ラーフラ
三三七 「愛すべく喜ばしい五欲の対象をすてて、信仰によって家から出て、苦しみを終滅せしめる者であれ。
三三八 善い友だちと交われ。人里はなれた騒音の少ないところに坐臥せよ。飲食に量を知る者であれ。
三三九 衣服と、施された食物と、(病人のための)物品と坐臥の所、――これらのものに対して欲を起してはならない。再び世にもどってくるな。
三四〇 戒律の規定を奉じて、五つの感官を制し、そなたの身体を観ぜよ(身体について心を専注せよ)。切に世を厭い嫌う者となれ。
三四一 愛欲があれば、(汚いものでも)清らかに見える。その(美麗な)外形を避けよ。(身は)不浄であると心に観じて、心をしずかに統一せよ。
三四二 無想のおもいを修せよ。心にひそむ傲慢をすてよ。そうすれば汝は傲慢をほろぼして、心静まったものとして日を送るだろう。
実に尊き師(ブッダ)は、このようにラーフラさんにこれらの詩を以て繰返し教えられた。
●第二 小なる章 一三、正しい遍歴
三五九「智慧ゆたかに、流れを渡り、彼岸に達し、完全な安らぎを得て、こころ安定した聖者におたずねいたします。家から出て諸々の欲望を除いた修行者が、正しく世の中を遍歴するには、どのようにしたらよいのでしょうか。」
三六〇 師はいわれた、「瑞兆の占い、天変地異の占い、夢占い、相の占いを完全にやめ、吉凶の判断をともにすてた修行者は、正しく世の中を遍歴するであろう。
三六一 修行者が、迷いの生存を超越し、理法をさとって、人間及び天界の諸々の享楽に対する貪欲を慎むならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
三六二 修行者がかげぐちをやめ、怒りと物惜しみを捨てて、順逆の念を離れるならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
三六三 好ましいものも、好ましくないものも、ともに捨てて、何ものにも執着せず、諸々の束縛から離脱しているならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
三七四 究極の境地を知り、理法をさとり、煩悩の汚れを断ずることを明らかに見て、あらゆる<生存を構成する要素>を滅ぼしつくすが故に、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。」
●第三 大いなる章 二、つとめはげむこと
四二九 つとめはげむ道は、行きがたく、行いがたく、達しがたい。」この詩を唱えて、悪魔は目ざめた人(ブッダ)の側に立っていた。
四三〇 かの悪魔がこのように語ったときに、尊師(ブッダ)は次のように告げた。――「怠け者の親族よ、悪しき者よ。汝は(世間の)善業を求めてここに来たのだが、
四三一 わたくしにはその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善行の功徳を求める人々にこそ語るがよい。
四三二 わたくしには信念があり、努力があり、また智慧がある。このように専心しているわたくしに、汝はどうして生命(いのち)をたもつことを尋ねるのか?
四三六 汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇(きかつ)であり、第四の軍隊は妄執(もうしゅう)といわれる。
四三七 汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑惑(ぎわく)であり、汝の第八の軍隊はみせかけと強情と、
四三八 誤って得られた利得と名声と尊敬と、また自己をほめたたえて他人を軽蔑することである。
四四六 (悪魔はいった)、「われは七年間も尊師(ブッダ)に、一歩一歩ごとにつきまとうていた。しかもよく気をつけている正覚者(しょうかくしゃ)には、つけこむ隙をみつけることができなかった。
●第四 八つの詩句の章 三、悪意についての八つの詩句
七八〇 実に悪意をもって(他人を)誹(そし)る人々もいる。また他人から聞いたことを真実だと思って(他人を)誹る人々もいる。誹ることばが起こっても、聖者はそれに近づかない。だから聖者は何ごとについても心の荒むことがない。
七八一 欲にひかれ、好みにとらわれている人は、どうして自分の偏見を超えることができるだろうか。かれは、みずから完全であると思いなしている。かれは知るにまかせて語るであろう。
七八二 ひとから尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらすのであるから、かれは「下劣な人」である、と真理に達した人々は語る。
七八三 修行僧が平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたくしはこのようにしている」といって誇ることがないならば、世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから、かれは<高貴な人>である、と真理に達した人々は語る。
七八四 汚れた見解をあらかじめ設け、つくりなおし、偏重して、自分のうちにのみ勝れた実りがあると見る人は、ゆらぐものにたよる平安に執着しているのである。
七八五 諸々の事物に関する固執(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執着を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの(偏執の)住居のうちにあって、ものごとを斥け、またこれを執る。
七八六 邪悪を掃い除いた人は、世の中のどこへいっても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。邪悪を掃い除いた人は、いつわりと驕慢を捨て去っているが、どうして(輪廻に)赴くであろうか?かれはもはやたより近づくものがないのである。
七八七 諸々の事物に関してたより近づく人は、あれこれの議論(誹り・噂さ)を受ける。(偏見や執着に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るだろうか?かれは執することもなく、捨てることもない。かれはこの世にありながら、一切の偏見を掃いさっているのである。
●第四 八つの詩句の章 一〇、死ぬよりも前に
八四八 「どのように見、どのような戒律を保つ人が『安らかである』と言われるのですか?ゴータマ(ブッダ)よ。おたずねしますが、その最上の人のことをわたくしに説いてください。」
八四九 師は答えた、「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよとおもいめぐらすことがないならば、かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。
八五〇 かの聖者は、怒らず、おののかず、誇らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎む。
八五一 未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂えることもない。〔現在〕感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。
八五二 (貪欲などから)遠ざかり、偽ることなく、貪りもとめることなく、慳(ものおし)みせず、傲慢にならず、嫌われず、両舌(かげぐち)を事としない。
八五三 快いものに耽溺せず、また高慢にならず、柔和で、弁舌さわやかに、信じることなく、なにかを嫌うこともない。
八五四 利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆らうことがなく、美味に耽溺することもない。
八五五 平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人を自分と)等しいとは思わない。また自分が勝れているとも思わないし、また劣っているとも思わない。かれには煩悩の燃え盛ることがない。
八五六 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。
八五七 諸々の欲望を顧慮することのない人、――かれこそ<平安なる者>である。とわたくしは説く。かれには縛めの結び目は存在しない。かれはすでに執着を渡り了(お)えた。
八五八 かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。
八五九 世俗の人々、または道の人、バラモンどもがかれを非難して<貪りなどの過(とが)>があるというであろうが、かれはその(非難)を特に気にかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。
八六〇 聖者は貪りを離れ、慳(ものおし)みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものである』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別を受けることがないものであって、妄想分別におもむかない。
八六一 かれは世間において<わがもの>という所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは〔欲望に促されて〕、諸々の事物に赴くこともない。かれは実に<平安なる者>と呼ばれる。」
●第四 八つの詩句の章 一六、サーリプッタ
サーリプッタさんが言った、――
九六二 心を安定させ気を落ちつけている賢者は、どのような学修を受けて、自分の汚れを吹き去るのですか?――譬えば鍛冶工が銀の垢を吹き去るように。」
九六三 師(ブッダ)は答えた、
「サーリプッタよ、世を厭い、人なき所に坐臥し、さとりを欲する人が楽しむ境地および法にしたがって実践する次第を、わたくしの知り究めたところによって、そなたに説き示そう。
九六四 しっかりと気をつけ分限を守る聡明な修行者は、五種の恐怖におじけてはならない。すなわち襲いかかる虻(あぶ)と蚊(か)と爬虫類と四足獣と人間(盗賊など)に触れることである。
九六五 異なった他の教えを奉ずる輩をも恐れてはならない。――たといかれらが多くの恐ろしい危害を加えるのを見ても。――また善を追求して、他の諸々の危難にうち勝て。
九六六 病いにかかり、餓えに襲われても、また寒冷や酷暑をも堪え忍ぶべきである。かの<家なき人>は、たといそれらに襲われることがいろいろ多くても、勇気をもって、堅固に努力をなすべきである。
九六七 盗みを行なってはならぬ。虚言を語ってはならぬ。弱いものでも強いものでも(あらゆる生きものに)慈しみを以て接せよ。心の乱れを感ずるときには、「悪魔の仲間」であると思って、これを除き去れ。
九六八 怒りと高慢とに支配されるな。それらの眼を堀つくしておれ。また快いものも不快なものも、両者にしっかりとうち克つべきである。
九六九 智慧をまず第一に重んじて、善を喜び、それらの危機にうち勝て。奥まった土地に臥す不快に耐えよ。
九七〇 すなわち『わたしは何を食べようか』『わたしはどこで食べようか』『(昨夜は)わたしは眠りづらかった』『今夜はわたしはどこで寝ようか』――家を捨て道を学ぶ人は、これら(四つの)憂いに導く思慮を抑制せよ。
九七一 適当な時に食物と衣服を得て、ここで(少量に)満足するために、(衣食の)量を知れ。かれは衣食に関しては恣(ほしいまま)ならず、謹んで村を歩み、罵られてもあらあらしいことばを発してはならない。
九七二 眼を下に向けて、うろつき廻ることなく、瞑想に専念して、大いにめざめておれ。心を平静にして、精神の安定をたもち、思いわずらいと欲のねがいと悔恨とを断ち切れ。
九七三 他人からことばで警告されたときには、心を落ちつけて感謝せよ。ともに修行する人々に対する荒んだ心を断て。善いことばを発せよ。その時にふさわしくないことばを発してはならない。人々をそしることを思ってはならぬ。
九七四 またさらに、世間には五つの塵垢がある。よく気をつけて、それらを制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触れられるものに対する貪欲を抑制せよ。
九七五 修行僧は、よく気をつけて、心もすっかり解脱して、これらのものに対する欲望を抑制せよ。かれは適当な時に理法を正しく考察し、心を統一して、暗黒を滅ぼせ。」
――と師(ブッダ)はいわれた。
以上の紹介内容は、すべて下記より引用しています。
ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫) 文庫
【参考】
『ブッダことば スッタニパータ』
中村元/訳 岩波文庫
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