最初期の仏教において、人間の宗教的実践の基本的原理として特に強調したことは、慈悲であった。
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慈悲 (講談社学術文庫) 文庫
【参考】
『慈悲』中村元/著 講談社学術文庫
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『慈悲』中村元/著 講談社学術文庫
第三章 慈悲の観念の歴史的発展
第一節 原始仏教における慈悲の意義
一 生きとし生けるものに対する慈しみ
より抜粋
最初期の仏教において、人間の宗教的実践の基本的原理として特に強調したことは、慈悲であった。
慈悲とは、一言にしていうならば、愛の純粋化されたものである。人間におけるそれの最も顕著な例は、母が子に対していだく愛情のうちに認められる。
すでに原始仏教において母がおのが身命を忘れて子を愛するのと同じ心情を以て、万人を、いな、一切の生きとし生けるものどもを愛せよということを、強調している。
『あたかも、母が己が独り子をば、身命を賭しても守護するがごとく、そのごとく一切の生けるものに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。また全世界に対して無量の慈しみの意を起すべし。上に下にまた横に、障礙(しょうげ)なき怨恨なき敵意なき(慈しみを行なうべし)。たちつつも歩みつつも坐しつつも臥しつつも、睡眠をはなれたる限りは、この(慈しみの)心づかいを確立せしむべし。この(仏教の)中にては、この状態を(慈しみの)崇高な境地(梵住)と呼ぶ。(1)』
また父母親族が自分にしてくれるよりも以上の善を他人になすように心がけねばならぬという。(2)
慈悲は一切の生きとし生けるものどもに及び、たとい微小なる一匹の虫けらといえども、これをいつくしまなければならない。
『思いを正しくして「無量の慈しみ」を修する者あらば、
かれは執着の滅亡を見つつあれば、
幾多の束縛は微細となる。
悪心あることなく、たとい一匹の生きものなりとも慈しむものあらば、
かれはそれによって善人となる。
こころに一切の生けるものをあわれみつつ、
聖者は多くの功徳をつくる。
生きものに充ちみちたる大地を征服して、
馬祠・人祠・擲捧祠・ソーマ祠・無遮会の主催者として廻る聖王も、
慈しみにみちたるこころをよく修したる人の十六分の一だにも値せず。
月光に対する群がる星くずのごとし。
〔他のものを〕殺すことなく、殺さしむることなく、勝つことなく、勝たしむることなく、一切の生きとし生けるものどもに慈しみのこころあらば、
何人もかれに怨みをいだくことなし(3)』
・・・
初期の仏教では、特に他人のために教を説いて迷いを除き、正しいさとりを得しめることが慈悲にもとづく重要な活動とされている。釈尊が成道後に、梵天のすすめに応じて世の人々のために法を説かれたのは、慈悲にもとづくのである。(13)
『そのとき世尊は梵天の意願を知り、また衆生に対するあわれみにより、仏の眼を以て世間を見わたした。(14)』
・・・
●訳注(第三章第一節一)〜 著者・中村元氏による訳注より以下抜粋
(1) スッタニパータ 一四九―一五一。
(2)『ダンマパダ』四三。
(3) Itiv 27.Gāthā.(以下G.と略す。= AN. IC. pp.150-151 G.)
さらにここの散文の部分ではこの旨を詳説している。
(13) cf. yam bhikkhave satthārā karaṇiyaṃ sāvakānaṃ sāvakānaṃ hitesinā anukampakena anukampaṃ upādāya, kataṃ vo taṃ mayā . (MN. I. p.118)
『如下尊師為二弟子一起二大慈哀一憐念愍傷、求二義及饒益一求二安穏快楽一者上。我今己作。』(『中阿含経』第二五巻、大正蔵、一巻五九〇頁上)
つまり仏が教を説いて衆生の苦しみを脱せしめるのが慈悲なのである。かかる考えかたは後代まで継承されている。
(14) SN. I. p.138; MN. I. p.169.
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慈悲 (講談社学術文庫) 文庫
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『慈悲』中村元/著 講談社学術文庫
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Wikipedia(四無量心)より以下抜粋。
四無量心(しむりょうしん)とは、他の生命に対する自他怨親なく平等で、過度の心配などのない、落ち着いた気持ちを持つことをいう。サマタ瞑想(止)の対象である四十業処の一部。
四梵住(しぼんじゅう)、四梵行(しぼんぎょう)ともいう。
無量というのは、限界なくどこまでも成長させることができること、あるいは対象となる衆生が無数であることから言う。
慈無量心:「慈しみ」、相手の幸福を望む心。
悲無量心:「憐れみ」、苦しみを除いてあげたいと思う心。
喜無量心:「喜び」、相手の幸福を共に喜ぶ心。
捨無量心:「平静」、相手に対する平静で落ち着いた心。動揺しない落ち着いた心を指す。
なお上座部教学の集成者であるブッダゴーサは、『清浄道論』において、単なる無関心を「無智捨」と呼び、捨無量心とは似て非なるものとしている。