慈悲を修してはならぬ場合

更新日:2015/06/17 公開日:2015/06/17

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慈悲を修してはならぬ場合【自己変容の道】
慈悲を修してはならぬ場合【自己変容の道】

慈悲を修してはならぬ場合

 

慈悲が、感性的なものに溺れている人にとっては、慈悲を修してはならぬ場合があるということが説かれている。すなわち、慈悲の観法は、心に瞋恚(しんに)の高ぶっている人にとっては必要であるが、貪愛(とんあい)の強い人にとっては不適当であるというのである。『慈悲』中村元/著より抜粋

 


以上の紹介内容は、すべて下記より引用しています。

慈悲 (講談社学術文庫) 文庫

【参考】

『慈悲』中村元/著 講談社学術文庫

 

画像については、書籍の内容を参考に作成したものです。それ以外の追加情報については参照元を個別に記載します。

 

『慈悲』中村元/著 講談社学術文庫

第五章 慈悲の倫理的性格

第一節 慈悲の無差別性

三 慈悲を修してはならぬ場合

より抜粋 


慈悲を修してはならぬ場合

慈悲が、感性的なものに溺れている人にとっては、慈悲を修してはならぬ場合があるということが説かれている。すなわち、慈悲の観法は、心に瞋恚(しんに)の高ぶっている人にとっては必要であるが、貪愛(とんあい)の強い人にとっては不適当であるというのである。

 

『されど、瞋恚の過によりて心が揺らぐときには、わが身に(その害を)適用してみて、慈を修せよ。慈は、憎しみを性とする者をしずめるのに効があるからである。胆汁性の人に冷却法の効があるようなものである。』

 

『もしも瞋恚または害意が汝の心を揺るがすならば、濁った水を宝珠によってきよめるように、それを対治する力によって、(心を)清く澄ましめよ。両者を対治するものは、まさに慈と悲とであると知れ。両者がつねに対立するのは、光と闇のごとくである。』

 

『また貪愛がたかぶるによって心がみだされる時は、慈をひき起す方法を修するなかれ。貪愛を性とする者は慈によって迷うがゆえに。あたかも痰になやむ者が油性剤を用いて(苦痛を増すが)ごとし。』

 

『意のはたらきが迷いに縛せられているならば、慈観と不浄観とは、行なうに適しない。それによって、より深く迷いに入るからである。あたかも風性の人が収斂剤をとれば(より深く無意識におちいる)ようなものである。意のはたらきが迷いを本性とする時には、むしろ縁起性を観ずべし

 

そうしてこういう態度はまた大乗仏教にも継承されている。ナーガールジュナは慈心というものを個別的な一種の精神療法と考えている。すなわち怒りっぽい人には慈心を涵養(かんよう)させる必要があるが、貪欲のある人が慈心を起すと却って貪欲を増すから、いけない、というのである。

 

『対治悉檀とは、法あり、対治するときには即ちあるも、実性はすなわち無きなり。譬えば重き熱膩酢醎の薬草・飲食等は、風病の中においては名づけて薬と為すも、そのほかの病においては薬に非ず。もし軽き冷甘苦渋の薬草飲食等ならば、熱病においては名づけて薬と為すも、その他の病においては薬に非ざるがことく、仏法の中にて心病を治するもまたかくのごとし。不浄観の思惟は、貪欲病の中においては名づけて善き対治の法と為すも、瞋恚病の中においては名づけて善と為さず。対治の法に非ざればなり。所以はいかに。身の過失を観ずるを不浄観と名づくるものなれば、もし瞋恚の人にして過失を観ずれば、即ち瞋恚の火をますが故なり。慈心を思惟するは、瞋恚病の中においては名づけて善き対治の法と為すも貪欲病の中においては名づけて善となさず。対治の法に非ざればなり。所以はいかに。慈心は衆生の中において好き事を求め功徳を観ずるものなれば、もし貪欲の人にして好き事を求め功徳を観ずれば、即ち貪欲をますが故なり。(5)』

 

この見解は天台宗始めシナの仏教にも継承されている。(6)

 

右の立言は慈しみが貪欲とつながるものがあるという事実を明らかにしている点で興味が有る。慈しみとは人間的な愛情に基づいているが、人間的な愛情は同時に欲情に転化する危険をはらんでいるのである。

 


●訳注(第五章第一節三)〜 著者・中村元氏による訳注より以下抜粋

(5) 『大智度論』第一巻(大正蔵、二五巻六〇頁上―中)

(6) 例えば、『天台四教儀』中本、二五。またかかる見解は、はるか後代の大乗仏教にまで継承されている。例えば『大乗中宗見解』においては、次のようにいう。

『経の所説のごとし。貪多き衆生には不浄観を以て対治をなし、瞋多き衆生には慈悲観を以て対治を為し、癡多き衆生には因縁観を以て対治を為し、生死を免れしむ。』(宮本正尊教授『根本中と空』二五三頁)。

 


以上の紹介内容は、すべて下記より引用しています。

慈悲 (講談社学術文庫) 文庫

【参考】

『慈悲』中村元/著 講談社学術文庫

 

画像については、書籍の内容を参考に作成したものです。それ以外の追加情報については参照元を個別に記載します。

 


三毒(貪・瞋・癡)

Wikipedia(三毒)より以下抜粋。

【三毒】

仏教において克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩、すなわち貪・瞋・癡(とん・じん・ち)を指し、煩悩を毒に例えたものである。

 

▶︎貪(とん):むさぼり(必要以上に)求める心

貪(とん)は、仏教が教える煩悩のひとつ。別名を貪欲、我愛といい五欲の対象である万の物を必要以上に求める心である。このような心は、我(近代哲学でいう自我に近い)を実体的なものとして把握してしまう誤りから起こる。

 

▶︎瞋(しん):怒りの心

瞋(しん)は、仏教が教える煩悩のひとつ。瞋恚(しんに)ともいう。我(自分)に背くことがあれば必ず怒るような心である。

 

▶︎癡(ち):真理に対する無知の心

癡(ち、痴)は、仏教が教える煩悩のひとつ。 別名を愚癡(ぐち、愚痴)、我癡、また無明ともいう。 万の事物の理にくらき心をさす。

 


縁起

コトバンク(縁起)(大辞林 第三版の開設)より抜粋

【縁起】えんぎ

〘仏〙 因縁によってあらゆるものが生ずること。

 

コトバンク(縁起)(世界大百科事典内の縁起の言及)より抜粋

【因縁】より

仏教では,すべてのものごとが生起したり,消滅したりするには必ず原因があるとし,生滅に直接関係するものを因と言い,因を助けて結果を生じさせる間接的な条件を縁として区別するが,実際に何が因で何が縁であるかをはっきり分かつ基準があるわけではない。因縁は〈因と縁〉と〈因としての縁〉の二通りに解釈されるが,この両者を一括して縁と呼び,因縁によってものごとの生起することを縁起(えんぎ)とも言い,また,生じた結果を含めて因果(いんが)とも言う。因縁,縁起,因果は仏教教理の最も根本的な考え方であるが,必ずしも因から果へという時間的関係のみを意味するだけでなく,同時的な相互の依存関係,条件をも意味している。

 


四悉檀(ししつだん)

コトバンク(四悉檀)(大辞林 第三版の解説)より抜粋

【四悉檀】ししつだん

〘仏〙  仏が人々を教え導く四種の方法。


①世界悉檀(人々の心に合わせて説く)

②各々為人悉檀(各人の宗教的能力を考えて説く)

③対治悉檀(煩悩(ぼんのう)を打ち砕く)

④第一義悉檀(真理に直接導こうとする)