「生を真剣に受けとめるためには、人生をより単純化する必要がある」ということについて、『チベットの生と死の書』ソギャル・リンポチェ著より引用しています。
以降の紹介内容は、すべて下記より引用しています。
チベットの生と死の書 単行本(ソフトカバー)
【参考】
『チベットの生と死の書』
ソギャル・リンポチェ著/講談社
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追加情報については、参照元を個別に記載します。
生のはかなさを知っている人だけが、生の貴さを知っているのだろう。
英国である会議に出席していたときのこと。参加者たちはBBC(英国放送協会)のインタビューを受け、そのとき、わたしたちは死に直面していた一人の女性と話をした。その女性はかつて恐怖のために狂ったようになっていたという。死を現実のものとして本気で考えたことがなかったからだ。だがその後彼女は理解した。そして後に残る者たちに贈る言葉があると言った。
「生を、死を、真剣に受けとめてください」
生を真剣に受けとめるということは、一生を瞑想して暮らすということではない。私たちはヒマラヤの山奥に住んでいるのでもなければ、昔日のチベットに暮らしているのでもない。現代社会にあって、私たちは生活の糧を得なければならない。だが、九時から五時の生活にからめとられてしまうべきではないのだ。それは生のより深い意味への洞察などとは無縁の生活だ。
わたしたちの課題はバランスをとること、中庸の道を歩むことにある。非本質的な活動や興味に手を広げることをやめ、人生をより単純化することを学ぶことである。現代の生にほどよいバランスをもたらす鍵は単純さにあるのだ。
これこそが仏教における戒行(戒律を守って修行すること)の真の意味である。チベット語で戒行に相当する言葉は<ツル・ティム>という。<ツル>は「ほどよい、ちょうどよい」ことを意味し、<ティム>は「規則」あるいは「道」を意味する。つまり戒行とは、ほどよくちょうどよいことを実践することなのである。過度に複雑化した現代にあっては、それは生活を単純化することに他ならない。
そこから心の安らぎがもたらされる。精神的なものを求める時間が、精神的な真理のみがもたらしうる知識を求める時間ができる。それが死を直視するための助けとなるのである。
残念ながらこういったことを実践している人はほとんどいない。おそらく私たちは今こそ自分自身に問うてみるべきなのだ。「自分はこの人生で何を真に達成したのか」と。これは生と死をどれだけ真に理解したか、ということである。
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チベットの生と死の書 単行本(ソフトカバー)
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『チベットの生と死の書』
ソギャル・リンポチェ著/講談社
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バランスを取り続けることは役立ちます。その時々で必要に応じた分野のバランスを見直すことで、穏やかで落ち着いた調和に満ちた日々に近づくことができます。「流れる丸太」は中道を説明するために釈迦が用いた例えです。
調和のとれた「程よい」状態でバランスをとること。『中庸』とは「偏らず、過不足なく、極端に走らない人間の徳」という儒教の思想。『中道』とは「両極端に偏らない悟り・涅槃へ至る道」という仏教の思想。
明日死ぬかもしれないと思って生きてきた人間は、後悔が少ない。明日死ぬかもしれないと思う人間は、限られた生の時間を精一杯生きようとする人間であり、一日一日に最善を尽くそうとする人間である。一期一会を思う人間である。『死ぬときに後悔すること25』大津 秀一 (著)より。