心を鎮める〜慈愛について、高次のサポートから得た内容をシェアします。
「心を鎮める」と表現すると、場合によっては、冷たく無味乾燥な状態を思い浮かべる人もいるかもしれません。
まるで、無音の部屋に閉じ込められたような気分になったり、あるいは冷たい海の底に沈んでじっと息を殺しているような気分になるかもしれません。または、修行僧のように座禅を組んでいる状態や、ヨガのポーズで集中している様子を思い浮かべる人もいるかもしれません(それらは心を鎮めやすいですが)。
しかし「心を鎮める」というのは、いつ、どんな場所で、どんな状況にあっても可能なことであり、状況の変化は必要ではなく、むしろ全てがありのままの状態で可能でことなのです。
それは、何の感情も浮かんでこない状態や、なんの思考も浮かんで来ない状態ではありません。あらゆる感情や思考が浮かんでは消え、流れて行く様子を観ている状態を意味しているのです。
そして、その観ている態度は、けっして人ごとや第三者的ではありません。その感情や思考の主体として、感じ、思いながら、観ているのです。
またそれは、息を殺して心を閉じた状態ではありません。ゆったりとした深い呼吸と、完全に開いたハートに中で起こることです。
ハートを開き、深く呼吸を続ける中で、ベースにあるのは、無味乾燥ではなく、根源の存在そのものである「慈愛」です。
感情や思考に囚われ執着するのをやめて、感情や思考をその都度、流れるままに手放し眺めることができるようになると、そのBGMとして豊かな「慈愛」の音が流れ始めます。
怒ったり、悲しんだり、不安や恐れなど、強烈な感情を感じた時でも、よく耳を澄ますと、激しい感情の音楽の後ろから、静かな慈愛のBGMがとぎれとぎれに聴こえてくるでしょう。これは流れる雲の合間から見える背景の青空を見ることと似ています。
「BGM」や「聴く」というのは比喩ですが、根源的な慈愛の音なき音に満たされる、という意味です。この状態が、いわゆる「万事良好の流れ」そのものであると言えます。心を鎮めて慈愛の音を聴くこと、感じること、それが「心を鎮めること」と言えるでしょう。
2016年10月3日 inner-wish