悟り体験を学ぶ

更新日:2023/07/17 公開日:2023/07/17

インナーウィッシュ/プロフィール/メインメニュー/更新情報

悟り体験を学ぶ【自己変容の道4】
悟り体験を学ぶ【自己変容の道4】

悟り体験を学ぶ

 

悟り体験の共通的な枠組みについて、『「悟り体験」を読む』大竹普/著より紹介しています。

 



「悟り体験」を読むより引用


以下の紹介内容は、すべて下記より引用しています。

「悟り体験」を読む: 大乗仏教で覚醒した人々 (新潮選書) 単行本(ソフトカバー)

【参考】

『「悟り体験」を読む: 大乗仏教で覚醒した人々 (新潮選書)』

大竹 晋/著

 

小見出しは、本書の小見出しを引用したものです。

それ以外の追加情報については、参照元を個別に記載します。



「悟り体験」の五段階

 

悟り体験記において記されている修行はさまざまであるが、

それぞれの修行によって得られる悟り体験のうちには、

じつは意外なほど共通的な枠組みが認められる。

 

筆者は、暫定的な作業仮設として、

典型的な悟り体験はおおむね次のような

五段階から構成されていると考えている。

 


①自他忘失体験

自我亡失体験とは、いまだ通常の心である。"自我の壁"を残しているにせよ、

自己と他者との隔たりを亡失して、ただ心のみとなる体験である。

 

自他亡失体験は、しだいに自己と他者の隔てを忘れるようになる体験であるにせよ、

いまだ通常のこころである"自我の壁"を残している。

 

 

②真如顕現体験

 

真如顕現体験とは、通常の心である"自我の殻"を破って、

真如が顕現する体験である。

 

真如は法無我(もろもろの枠組みに我(確かな自己)がないこと)、

空性(からっぽ)である。

 

この時、顕現した真如を見ることを、臨済宗においては、

見性(けんしょう)(仏仏性(ぶっしょう)/心の本性を見ること)と呼ぶ

(仏性(ぶっしょう)/心の本性は真如の同義語)。

 

 

 

③自我解消体験

 

自我解消体験とは、真如—法無我—が顕現したことによって、

通常の心である"自我の殻"が解消される体験である。

 

通常の心である"自我の殻"が解消されるに伴い、

"自我の殻"に閉じ込められていたものが全世界へと拡散される。

 

先の真如顕現体験においては、叡智によって瞬間的に真如が見られるが、

この自我解消体験においては、肉眼によって継続的に光が見られるのである。

 

真如と光とは別物である(真如は物質でない以上、光を有しない)

 

さらに、通常の心である"自我の殻"が解消された時、

あらゆるものと一緒になって歓喜がしばしば感じられる。

 

④基層転換体験

 

基層転換体験とは、通常の心である"自我の殻"が解消されたことによって、

存在の基層が従来の基層から転換する体験である。

 

存在の基層とは、仏教的に言えば、

色(肉体)、受(感受)、想(対象化)、行(諸形成体)、識(認識)という五蘊であるが、

現代的に言えば、心(精神)と身体(肉体)とである。

 

心の変容については、それまで心の外側にあった全世界が

その後は心の内側にあるかのようにしばしば感じられる。

 

 

⑤叡智獲得体験

 

叡智獲得体験とは、存在の基層から転換したことによって、

かつてない叡智を獲得する体験である。

 

 

注意すべきは、叡智獲得体験においては、あくまで叡智が獲得されるのであって、

高い知能が、獲得されるのではないということである。

 

悟り体験者は、高い知能を獲得してテストの問題に回答できるようになるのではなく、

叡智を獲得して宗教的な問題を解決できるようになるのである。

 


叡智の一種としての超能力

 

絶大な叡智獲得体験において、

超能力のレベルな達するほどの叡智がしばしば獲得されることである、

 

仏教の三蔵においては、覚醒体験に伴って、聖者が、

神足通(念動力)、天耳通(遠感力)、他心通(読心力)、

宿命通(前世記憶力)、天眼通(遠視力)、漏尽通(煩悩滅尽力)

という六神通を獲得することがしばしば説かれている。

 

仏教においては、原始仏教、部派仏教、大乗仏教を問わず、

超能力が獲得されるという話は決して珍しいものではない。

 


悟り体験と修行

 

悟り体験を得るための修行としては、

公案を用いることもあるし、

"声を聞く主体は何か"と疑うこともあるし、

密教の本尊に加行することもあるし、

念仏することもあるし、

唱題することもある。

ただし、

それぞれの修行によって得られる悟り体験のうちには

意外なほど共通的な枠組みが認められる。

 

すなわち、悟り体験を得られる修行は

どれか特定の修行に限られているわけではない。

 

むしろ、

公案とひとつになること、

疑いとひとつになること、

本尊とひとつになること、

念仏とひとつになること、

題目とひとつになることなどによって、

通常の心である"自我の殻"をなくしていくことであるように思われる。

 

現実に、悟り体験記においては、

悟り体験が起きる前に、

それらとひとつになる状態が起きていることが多い。

 


悟りと精神異常

 

注意すべきは、それらとひとつになることによって、

通常の心である"自我の殻"をなくしていく時、

悟り体験を得る者がいるのみならず、

精神異常に陥る者もいるという点である。

 

おそらくは、通常の心である"自我の殻"をなくしていく時、

修行に堪えうる精神状態の者には悟り体験がもたらされ、

修行に堪えられない精神状態の者には精神異常がもたらされるのだろう。

 

もしそうなのだとするならば、人によっては無理に通常の心である、

"自我の殻"をなくそうとすることは危険であるかもしれない。

敢えて注意を喚起しておく次第である。

 


絶大な悟り体験者は誰もがわかる

 

絶大な悟り体験者には、

誰もが「この人は確かに悟っている」とわかる基準があるらしい。

 

その基準とは、もしある人が絶大な悟り体験者であるならば、

その人に 接した人々までもが悪念を捨てて浄化されるということである。

 

大乗仏教は仏となることを目指している。

その人に接した人々までもが悪念を捨てて浄化される

—そういう人こそ仏に近い人ではないだろうか。

 

そのように仏に近づいていけることこそが

悟り体験の本当の価値ではないかと筆者は考えている。

 


悟り体験は宗教にとって手段に過ぎない

 

悟り体験は宗教にとって目的を達成するための手段に過ぎない。

悟り体験は宗教にとって決して目的ではない。

 


悟り体験は悟り体験だけで終わるものではない

 

大乗仏教の目的は

自利(自己のためになること)と利他(他者のためになること)

との二つを完成して仏になることを目的としている。

 

悟り体験は自利を完成するための手段である。

自利を完成することに努めるのまならず、

利他を完成することにも努めないかぎり、

大乗仏教の目的は達成されない。

 


以上の紹介内容は、すべて下記より引用しています。

「悟り体験」を読む: 大乗仏教で覚醒した人々 (新潮選書) 単行本(ソフトカバー)

【参考】

『「悟り体験」を読む: 大乗仏教で覚醒した人々 (新潮選書)』

大竹 晋/著

 

小見出しは、本書の小見出しを引用したものです。

それ以外の追加情報については、参照元を個別に記載します。



関連ページ

ブッダ【役立つ情報】
ブッダ【役立つ情報】

●ブッダ【役立つ情報】

ブッダに関する役立つ情報を紹介しています。続きを読む

●ブッダ【役立つ情報】

 

ダライ・ラマ【役立つ情報】
ダライ・ラマ【役立つ情報】

●ダライ・ラマ【役立つ情報】

ダライ・ラマに関する情報や書籍からの記事を紹介しています。続きを読む

●ダライ・ラマ【役立つ情報】